別れのシーン 上野駅で
五十歳代に出向していた会社の同僚二十四人と、上野公園内にある料亭で、久し振りに旧交を温めた。
二階の宴席には大窓があり、その左側を覆う桜の花びらが、吹く小さな風で舞う。眼下の向こうには、夏にはさぞ見事だろう「不忍池」の蓮。しかし、呑み助どもは花は花でも、昔の話に花を咲かせるばかり。
「来年もな!」
「きっとだぜ!」
「それまで元気で、頼むよ」
と、別れの挨拶をしても、気の合った連中は三三五五(さんさんごご)二次会へ。こいしもそうで、元社長、現社長と昔なじみの神田駅近くのバーへ向かった。そのさい、上野駅の新幹線改札口付近で、若い二人が口づけをしているのを目にした。
土曜の夜のバーには誰一人いない。カウンターに肘をつき、暇そうだったマスターは狂喜して、いつの間にか客になっている。
あの頃、この頃の話題が一段落すると元社長が
「なあ、マスター、ここに来る時、上野駅のコンコースで、若いのがキスしてたんだ。人目なんか何処吹く風、大っぴらにだ。嘆かわしいったらありゃしない、世も末だよ」
酔いもあってか、手厳しい。
すると、現社長が
「大家族に育てられた子供は、小さい時から、恥ずかしさを教わって、それをつかさどる脳が発達するのですけれど、今は核家族ですから、そういった人たちが出るんですよ。ねえ、こいし先輩、そうでしょう?」
小難しい問いに答えられないでいると、マスターが引き取った。
「僕は、そんなの関係なく、見られている方が興奮する、ただそれだけだと思います」
「そうかなあ。だったら、マスターやってみてよ。そして感想、聞かせてよ」
I氏、発破を掛ける。
「良いけど、相手がいないな。しわ首の女房じゃ、万人から見つめられたって、興奮しないもの。ねえ、社長! お宅の若い娘(こ)紹介してよ。ぽっちゃりした娘」
カウンターの向こうで、痩身の美人ママが、睨み顔で微笑んでいる。
飲み疲れ、山手線の吊革に身をゆだねていた、こいし、上野駅を過ぎた時、あの二人を、ふと思い出した。するとすぐ、映画「哀愁」の名シーンが、頭を過ぎった。
「クローニン大尉は空襲警報鳴り続けるウォータール橋で踊り子のマイラと偶然出会った。そして惹かれあった。しかし、明日は再び戦線へ赴くクローニン。その夜、キャンドルクラブにマイラを誘った。
間もなくの閉店を告げる「蛍の光(※オールド・ランク・サイン)」の演奏が始まり、そのうち楽士が一つ一つキャンドルを消していく。戦場では死もありえる、それを思い、危惧の念を抱いた二人はダンスの足を止め、口づけを交わす」
社長が「世も末」と嘆いた、その二人の身形はきちんとしていた。足下には大きな旅行鞄があった。
四月は転勤シーズン。男性が何処(いずこ)かに転勤? いや、相違ない。予約した新幹線の発車時間はもうぎりぎり。明日から暫らく逢えない、その気持ちを抑えられず・・・・・・哀愁の名シーンと重なる。
今度、元社長に会ったら、二人を弁護しよう。恐らく、昔の口調でこう言うだろうが。
「君は若い者を見る目が甘い! だから、君の部下は育たなかったのだ」
[付録]
三月十八日の「私 ミモザ 来春も見てね」の付録「双子のシンビジューム」の
ねえね(お姉ちゃん) やっとお眠むから覚めました(後方)
道行くご婦人が「まあ エレガンスだこと」 他の人もそれに似た 言葉を掛
けてくれました ばあば(お婆ちゃん)になってもこうであって欲しいです
手作りの額にあるのは 生花のハンギング
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石神井川の桜見 ご招待
今回は稚拙なエッセイは止めにして、石神井川沿いの桜を紹介します。出発点は隅田川より10、3kmほど上流の「高稲荷橋」、到着点は「石神井公園ボート池」です。
ちなみに桜の本数(左岸)は、数え違いがなければ273本です(ただし 高稲荷橋から、中の橋までの77本は右岸)
(1)高稲荷橋での桜
水面に影が映っています
高稲荷神社 神社の下の公園の屋台 香ばしい匂いが漂います
数十メートル上流の花筏(はないかだ)です
(2)大橋での桜(下流に向かっての写真)
選手も ここで練習していたのでしょう
(3)中の橋での桜
これより先は行けません 有料の遊園地「としまえん」ですので
橋の向こうが「としまえん」
(4)石川橋での桜
「としまえん」の西側です 桜並木は護岸工事で伐採され 竣工後に植えた桜で、若木だからでしょうか まだ咲いていません
北に少し入った所に神社と寺が同一敷地内に仲良く存在しています 明治時代の「廃仏きしゃく」をどう、免れたのでしょう? 不思議に思います
神社 お寺
(5)上新田橋での桜
沿道唯一の「山桜」が白い花をつけています(手前)
右に少し行った所に巨大なガスタンクがあります 今でしたら 住民反対運動で建たなかったでしょうね
(6)こぶしはしからの側道(右下に石神井川)
ここだけが 綺麗なカラー舗装でした
(7)薬師堂橋での桜
(8)平成みあい橋での桜
水面より少し高い地点に散歩道があります そこから見上げて桜を撮りました
ここでの見合いなら、上手くいくのでしょうか? そうであって欲しいですけれど
(9)終着点 石神井公園ボート池に着きました
いつもは賑わっているのですが 人影がありません 花見に皆 行ってしまったのでしょうか?
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寄り道
お彼岸に入りましたので、祖先が眠る雑司ケ谷霊園へ向かいました。今日は雲一つない良い天気です。なので久しぶりに、その界隈をゆっくり見て歩き、それからにしました。
先ず最初は、太平洋戦争の指導者と言われる人 が拘置されていた「巣鴨プリズム」の跡地です。あったその頃は陰雲のイメージだったと聞きますが、今は一片もなく、家族や恋人、若人等が楽しむ施設もある「池袋サンシャイン60」になっています、時の流れでしょう。
中央通り(※グリーン道り)には、昔、「ジャズ喫茶D」がありました。当時のこいし(私)ミーハーで、テレビで見る、売れっ子の歌やトークを聴きに、親には内緒、学校には見つからないように私服で、よく通いました、高2の三学期の頃でした。
その場所も、もうなく、ありふれた商業ビルになっています。これもまた、時の流れでしょう。
道路を横切り、少し進むと「日蓮宗・本立寺」が右に見えます。喧騒街の唯一の静寂な場所です。境内にはベンチもあり、夫婦かな? 茶飲み友達かな? 老いた男女が親密に話しています。
それは見ぬ振りして、参詣しようと本堂の前まで行ったのですが、賽銭箱が見当たりません。「どうして?」疑問が解けぬまま、山門を離れました。
「鬼子母神」にも寄りました。そこで初めて知ったのは「鬼子母神」の鬼の第一画目の「点」が、ないことにです。
(※コンピュータの機能では表示できませんので、下段の写真を見て下さい)
そばにいた、学者風の中年の人に疑問を問いますと「鬼子母神が釈尊に諭されて改心したので、角が外れた」と、得意げに答えました。ですがこれだけでは消化不良、帰宅後、ホームページを見てみました。
「その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉人の娘で、嫁して多くの子を産みました。
しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。
お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は『千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん』と戒めました。
そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育ての神になることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています」
やっと目的地の霊園に着きました。ここには著名人の多くが眠っています。
(※下段の写真を見て下さい)
こいしの祖父母や両親も? とんでもない、偉人を輩出するような家系では、毛頭ありません。
祖先に言葉を掛け、来た道を戻るさい、新しい墓石が目に入りました。何げなく墓誌を見ますと、長い人生を送ってきて、この人の他には聞いたことのない、珍しい女性の名が刻まれていました、姓は違っていましたが。
高3の秋の頃、通学するバスの中で都立高校(※こいしは私立男子校)に通っている、墓誌に載るその人と知り合い、何度か「石神井公園」でバスを降り、ボートに乗ったり、ベンチで語らい合いました、時には、一番星が輝くまでも。
「卒業しても、逢おうね」と、約束したのですが、それっきりになりました。
「今はどうしているかなあ? 逢ってみたいなあ」
時には思ったりもしていました。
何時かは、こいし、ここに埋骨されます。そうなった時「彼女の墓までトンネルを掘り、逢いに行こう」
帰路、そのような夢物語が頭を過ぎりました。灰になっても、恋の煩悩を捨て切れない、こいしのようです。
(鬼子母神)
鬼の点がないの お分かりですか?
(本立寺)
賽銭箱 ないでしょう 手前にベンチが二つあります
( 雑司ケ谷霊園に眠る著名人)
(霊園の案内図より)
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すぎたるは なお およばざるがごとし
健康であるには一日、八千歩のウォーキングだと専門家は言う。こいし(私)これを信じ、家から四方向に決め、朝夕、実行していた。
しかし、四日ごと見る風景に飽きあきし、それでは? を考え、来年(※平成28年)の新年を期して、都営地下鉄線の四路線の地上部を歩くことにした。そして実行、大江戸線から始め、三田線、新宿線、浅草線を踏破した。(※詳細は下段の図を見てください)
この歩数に日常生活のも加えると、四月末までに1,071,938歩となり、歩幅を30センチと見積るなら、およそ322キロ、歩いたことになる。(※一日平均、約9,000歩)
それからも、バスや私鉄沿線を歩き、紅、黄葉の季節には奥武蔵の山々に登った。
二月の初旬(※今年)足の付け根に痛みを感じたが、一過性だと思い、ほっぽっていた。しかし、日毎、緩やかだが増してくる。
昨年の暮れ、京都に住む画家から「アトリエに来ない? 面白い物がいっぱいあるんだ」と、誘われていた。新幹線もホテルも予約済みだったので、不安ではあったが向かい、もう最後になるだろう、仏野念仏寺(あだしのねんぶつじ)の水子地蔵にも逢ってきた。(※3月3日のブログ「おかあさん、なかないで」)
その頃は、もう痛くて痛くて、破行状態であった。
湿布薬を貼って、一週間、様子を見たが、一向に良くならない。そこで、渋々、総合病院の整形外科を訪問した。
「どうしました?」と医師。
「足の付け根が痛いのです」と、こいし。
「そうですか、それではレントゲンで、見てみましょう」
(※一時間後)
「レントゲンでは股関節に異常ないですね。何か運動していますか?」
「一日、八千歩、歩いています」
「いつからですか?」
「三年にほどになります」
「それが原因かもしれません。炎症による腫れや痛みを和らげる薬を処方しますので、二週間飲んでください。それでも痛いようでしたら、精密検査しましょう」
こいしは三年前に「僧帽弁及び三尖弁閉鎖不全症」の手術を受け、その後、六種類の薬を朝食後に服用している。それに加えて二種類が加わった。それを多目の水で飲むと、お腹がいっぱいになる。でも、朝食は事前に取る。
「何でですかって?」
その答えを、三十年も笑わせてもらっている「何でもフラメンコ」的に言うなら
「お腹がいっぱいなのにぃ、朝ごはんを食べるぅ・・・・・・なあーんでか、なあーんでか、それはね、薬を飲むため・・・・・・オーレイ」
日数と駅間です,クリックすると拡大されます 歩いた駅が少ないのは、迷ったからです
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私 ミモザ 来春も見てね
「お隣の河津さん(※二月八日のブログ「言わずもがな」の河津桜のこと)が終わったら、出番は私、シルバーグリーンの葉に、黄色い小さな丸い花、可愛いでしょう、綺麗でしょう、見てちょうだい」と、ミモザ。
こいし(私)の家から北へ二百メートルほどの所に、薄グリーンのしゃれた老人ホームがある。そこに居住する、婦人と付き添いの人が、散歩のさい、我が家のミモザを見て、このような会話をしていた。(※声だけなので、どちらの言葉だかは分かりません)
「今年も見られたわ、良かった」
「昨年より、一回り大きくなったみたい。花つきも多いようだわ。来年も楽しみね」
「この花の花言葉、知っていますか?」
「いいえ」
「優雅、友情よ。でもね、秘密の愛、秘めたる恋というのもあるの」
「風で揺らいでる姿は、とても優雅だわ。小花が枝に仲良くくっ付いていて、友情も分かるわ。でも、派手な黄色でしょう、秘密の愛とか恋は、どうしてかしら?」
「そうだわね、お花に詳しい、園長さんに帰ったら、聞いてみましょう」
十年ほど前、園芸店の見切り品コーナーで、丈が30センチ、太さが2センチぐらいで、今にも枯れそうな「ミモザ」を、目にした。値札にはラベルが三枚、重ねて貼ってあり、最後のそれは百円だった。
今日、売れなければ、明日には処分?
そう想像すると哀れになり、買ってしまった。そして、門の横の小さな空間に植え、二週間後、肥料をたっぷり与えた。
日当たりが良いことと、月一度の肥料が効いたようで、ぐんぐん背丈が伸びた。だが、幹は太らない。
(※ミモザに肥料を与え過ぎると、このようになると後日、教わった)
このような、ひょろひょろでは自立は無理、そう判断し、一本はフェンスから、もう一本はベランダから紐で固定した。
ミモザの小枝は弱く、台風時には多く折れる。雪が降れば降ったで、積もる雪の重さに耐えられず、大枝も折れる。なのでそのような日は一日中、雪掃いを強いられる。
こいし、もう歳、それが大儀になったので、除去を決めた。でも、実行できなかった。花芽を見てしまい、せめて来春、咲かせてから、そう思ったので。
その花芽が今、満開なのである。ホームの婦人と付き添いの人が
「今年も見られたわ、良かった」
「昨年より、一回り大きくなったみたい。花つきも多いようだわ。来年も楽しみね」と、先ほど話していた。
この言葉は「私、咲き終ったら切られるの。私、もっと生きたいの。私、喋ることが出来ないの。ホームのお二人、どうかお願い、こいしに切らないでって伝えて」
ミモザのその気持ちを代弁した? そうも思えてきて、それで除去に迷いが生じた。
翌夕、近所の酒飲み友達から、俺の家で一杯やろうと誘われた。飲むうち、ミモザを切る、切らないで悩む話をした。すると
「先が短い人が楽しみにしているのに、ばっさりはないよ。それと近所の人たちだって、春一番を楽しみにしていると思う。雪で折れたって、翌年は新梢が出てくるよ。切るの、賛成しないね」
奥さんも「そうよ、そうよ、私も反対、切ったらもう飲ませない、縁切るわ」と、圧力。
「えっ、切ったら飲ませてくれないの? 縁切られるの? それ、死ぬより辛い、言うとおりにします」
「それで良いのだ、さあ、もう一杯」
一杯が二杯、二杯が三杯、帰りに見上げた星は揺らいでいた。
幹が細いでしょう 拡大しました
「付 録」
ごく近い知人から、双子の「シンビジューム」を頂きました。双子の妹、とても綺麗なので、皆さまに見て頂きたく、載せました。姉はまだ、お休み中。
妹です 姉です
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リサイクルで 金 銀 銅メダル
JOCのジャック・ロゲ会長が、2013年9月7日、オリンピックの開催国は「トキョ(※東京)」と発した。招致委員会の面々、誰彼なしにハグしたり、飛び跳ねたり、大喜び。テレビで見ていた、こいしも喜んだ、ハグする人はいないけれど。
創設者である、ピエール・ド・クーベルタン男爵は「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」と、語った。
(※事実はペンシルベニア大教主のエセルバート・タルボットの言葉。こいし(私)知らなかった)
しかし、そうは言っても、参加国はメダル獲得に躍起だ、もちろん日本も。
遡ること五十年前の東京オリンピックでは、金16、銀5、銅8個だった。今回は? 誰もが夢を膨らませる。
こいしもそうだが、近頃になって、開催すること自体、疑問を持つようになっていた。
理由は招致するさいに発表した開催費用より、大幅に増えること。国立競技場の設計や、エンブレムのトラブル、競技会場の移設や、選定のごたごた、そのようなことで。
だが、その考え、今はない。小池百合子さんが都知事に就任して透明感が高まったこと。また費用も低減化したことで。今後、都と組織委員会とが、何事にも協力し合い、より良く進めて欲しい。
「おもてなし、素晴らしかった。今度は観光でファミリーと来よう。ラバー(恋人)と来るぞ。ハネムーンで来たい」
と、来日した人たちが、こう言ってくれるような。
二月十日の小池さん、記者会見で、こんなことをにこやかな顔で言った。
「大会組織委員会が授与する各種のメダルは、小型電子機器のリサイクルで製作する。その回収は四月から。東京都は先行し、二月十九日から、都庁の第二庁舎で回収する。
協力された方には、シリアルナンバー入りの感謝カードを用意する。セレモニーのさい、自分も三つの携帯電話を『メダル協力ボックス』へ投入する。
メダルの総数は約5千個、必要な金は10キログラム、銀は1,233キログラム、銅は736キログラム。携帯電話には金が0.048グラム、銀が0.26グラム、銅は7グラム含んでいる」
その説明の間に、こんなことも言った。
「皆さまからお預かりする電子機器から抽出されました金、銀、銅が、2020年には、アスリート、メダリストの方々、それぞれの栄誉をたたえるということになります」
こいしはミーハー(※みいちゃん、はあちゃんの略)だ。
小池知事の感謝カードが欲しい一念で、携帯電話三個、デジカメ二個を開始四日目に、ボックスへ投入した。
そのさい、係員に集積状況を聞くと、初日は約250人で834個、二日目は約260人で793個だと、答える。
こいしが提供した機器で出来た金メタルを、願わくは、金髪美人アスリートが受けて欲しい。それに頬ずりしてくたら、口づけしてくたら、かじってくれたら、嬉しいな。
感謝カードです こいしのシリアルナンバーは
001081です
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おかあさん なみだながさないで
前回の「タブレットは すご〜い」の末尾に「明日、京都へ旅してきます。愛くるしい、お地蔵さまに逢いに」と、記しました。
旅を決めたのは京都在住の画家、S氏と昨年の暮れ、神田の居酒屋で飲んだ時にです。S氏が「僕のアトリエに、面白い物がいっぱいあるんだ、是非、来て見てよ」と、興味を持たせるような口調で言いました。(※アトリエの話は後日、書こうと思っています)
見たい気持ちは、やまやまだったのですが、新幹線に乗ってまで、それを考えて躊躇していたのですが、そのうち、以前に見た、愛くるしいお地蔵さまが、ふと、頭を過ぎり、すると、どうしても逢いたくなり「年が明けたら、きっと」と、口にしました。
話は遡りますが、こいし、四十歳になった頃、大阪支店勤務の辞令を受けました。どの地へ赴任しても、そこを楽しむ主義の、こいし、ここは京都や奈良が近いので、古刹巡りに的を絞りました。
手始めの初日は、中学の修学旅行での行程どおり歩き始めました。そして、興福寺まで来た時、ここで、記念写真を撮ったことを思い出し、当時の気分もう一度、その気持ちで、記憶にあった石段に立ちました。すると前列にいた、I子さんが脳裏に浮かびました。
「成績が良く、綺麗で優しく、淑やかだった、I子さん、どうしているだろう」
少々、センチメンタルになりました。
翌々週は、天竜寺、釈迦堂、大覚寺、祇王寺を見学し、さらに、あだし野念仏寺まで足を伸ばしました。そこで、愛くるしい顔で、みず子地蔵尊の横で眠る、お地蔵さまと対面したのです。
この地蔵の由来は、念仏寺の栞のお終いに記されています。念仏寺の由来とともに、読んでみてください。(※要旨です)
「境内にまつる八千身体を数える石仏・石塔は、あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集めた。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり、人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。
竹林と多聞塀を背景に、茅屋根のお堂は、この世の光はもとより、母親の顔すら見る事もなく露と消えた『みず子』の霊を供養する、みず子地蔵尊である」
こいしの大阪勤務は三年でした。この間、幾度か念仏寺へ行き、地蔵に手を合わせました。大阪を離れるさいもです。
それから二十一年、S氏のアトリエを訪問した翌日、念仏寺へと向かい、そして、愛くるしいお地蔵さまに逢いました。当然ですが、全く変わっていない、寝姿です。
ですが、こいしが変わったのか、以前には考えもしなかった、こんなことを思いました。
「おかあさん、なみだながさないで。あたし(ぼく)不幸ではないの。おかあさんの、おっぱいはのめなかったけれど。
おかあさんのいまを、ほとけさまがはなしてくれます。あたしのことをおもって、いもうとをうまないのね。それはちがうわ、あたし、いもうとほしい。そのこが、あたしなのよ、おかあさん」
こいし、もう歳です、なので「今度逢うのは、蓮華咲く池のほとりでね」と声を掛けつつ、三度、頭をなで、来た道を戻りました。冬には珍しいほどの温かな陽を背に。
石塔と本堂(撮影禁止でしたので、念仏寺の栞より)
みず子地蔵尊(撮影禁止でしたので、念仏寺の栞より)
赤いべべ着た 愛くるしいお地蔵さま 写真撮影禁止
とても残念です
みず子地蔵尊の裏にある、竹林です これは、こいし
が撮りました。
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