思いでシリーズ(二)
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「思いでシリーズ(二)」
母は平成十六年五月、心不全と心房細動で東京西部に位置する病院へ転院した。それから三年八ヶ月後の平成二十年の冬のある日、見舞う私に母が、思いも寄らないことを口にした。
「お父さんが、鉄砲玉みたいに出ていって、三月も連絡がないの。女のところでも、どこでも、どうってことないけど、電話の一本ぐらい寄こすのが当たり前でしょう。ねえ、そうでしょう。
子煩悩な人だから、あなた方、子供の誰かには電話があったと思うの。のりちゃん(※私の姉)に聞いたら、とっくに死んじゃったって言ってたけど・・・・・・。まさか、兄妹みんなで隠しているんじゃないだろうね」
父は昭和四十一年に脳梗塞で倒れ、意識が戻らないまま、一週間ほどで逝った。四十数年も前とは言え、苦楽を共にしたであろう、良人を忘れるとは、どう考えても理解できなかった。
この疑問を電話で姉に話すと「まさか」を連発し、明日、確かめてくると言った。
翌日の夕方、姉より報告があった。
「一週間前に『お父さんは、とうに死んだわよと』話したのを、お母さん、信じなかったわけだから、葬式の写真を見せたの。そうしたら、参列した人の名前をすらすら言った。なので、その時は、まともだと思った。
でもね、その後すぐ、誰の葬式って聞くの。『お父さんのに決まっているでしょ』て言って、お父さんの名前が真ん中に書いてある、葬儀看板の写真を見せた。それでやっとよ、納得したの。
それとね、脳溢血で倒れたことや、家族が徹夜で看病したことなんか、ぜんぜん憶えてないの。お母さんの大脳、どうなっているのかなあ、切り開いて見てみたいよ」
姉の気持ち、私も同感である。
姉からの電話の翌日、母を見舞うと
「のりちゃんから、昔の写真を見せてもらったけれど、みんな、死んじゃったねえ」と、ため息まじりで言った。
多くの人は元気だよ、勝手に殺さないでよ、心の中で母に注意した。
母はその頃から、忘却が激しくなり、八月には、次兄が誰なのか分からなくなっていた。それから間もなく、六十余年も一緒に過ごし、病院の利用者保護者でもある、私も記憶から失われた。が、長兄と長女は最期まで忘れなかった。
母が健康だった頃は「どの子にも、一度だって分けへだてしたことなんかありませんよ」と、誇らしげに言っていた。
「ほんとうにそうだったの、母ちゃん? えこひいきしてたんじゃないの?」
私があの世へ行ったら、母に一番で聞いてみようと思う。
次のエッセイは、もしそうなっていたら、私の人生は大いに違っていただろう、です。
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