死を知らずの言葉ですか
宗谷岬は北緯四十五度、沖縄の喜屋武岬は二十六度、であるなら寒暖の差があるはず。そうではあるが「暑さの果ても彼岸ぎり、寒さの果ても彼岸ぎり」との故事。
この頃になると、きまって、学生時代のサークル(器楽合奏部)仲間のS君が脳裏に浮かび、同時に二つの思い出も。
漱石の小説「こころ」には 「墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて『もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、地面は金色の落葉で埋まるようになります』と言った」と書かれている。
高校二年の時に読んだS君は、この文章にかぶれ、それが高じて大学生活を、舞台になった雑司が谷霊園のそばで過ごした。
卒業後は愛媛県松山へ戻り、家業の水産業を継いでいたが、秋になると霊園の黄葉が恋しくなり、毎年のように上京していた。
S君は上京を決めると
「○月○日、東京へ行くよ。無理してでも会ってよ。いつもの時間に、れいのスナックで待っている」と、電話してくる。
ところが今回は、雑司ヶ谷霊園で正午と言う。
時間きっちりに待ち合わせ場所へ行くとS君、吸っていたタバコを急いで携帯のケースに収め、その後、挨拶もそこそこに
「こい君(私の呼び名)、君の入る墓、ここのどこ? 死んだら、お参りに来るから、教えてよ」
場所を指定した理由が、これ? 疑問を持ったが、先々、そうなるかもしれないと思い、案内した。
思い出(一)
私の学科では簿記が必須なのだが、悲しいかな、私はそれをこなす脳みそがない。なので、三年生になっても及第点が取れていない。四年でもそうだと、十六社受けて、やっと内定した会社は、ぱあ。
結核を患い、無収入に近い父が内定を知った時「やっと、お前にかかる金、心配しなくてよくなった。やれやれだ」と口にした。
就職と父の安堵を思うと、どうしても及第点が欲しい。だが、自信がない。そこで窮余の一策、一年次で既に単位を取っていた、商業高校出のS君に替え玉を頼んだ。
すると少し間をおいて
「見つかったら、退学になるよな。家業を継ぐ俺は、卒業証書、いらないけど・・・・・・こい君はまずいよな・・・・・・見つからない、良い方法はないかな・・・・・・そうだ、こうしよう。試験中に机に置く学生証は俺のにして、もちろん名前も俺のにする。
試験が始まって三十分になったら、教室を出ても良いことになっているだろう。その時、大勢が事務員に答案を渡して出て行くよな。ざわついているその時、名前を書き替える。事務員、二人だけ、見つかりっこない」
少々、自信ありそうに言った。
良策ではあるが、まだ、なにか不安。その様子を察したのか
「万が一が怖かったら、俺が責任持って、教えるから、まともに受けたら? なーに、簿記なんて、こつだよ。それが分かれば簡単だ。それと試験、毎年、同じような問題ばかりだから、過去問(題)を、がっちりやれば、及第点、間違いなし」
三日間、教わって、無事「蛍の光」を歌えた。
思い出(二)
替え玉を依頼した半年前の夏、サークルを打ち上げた翌々日、S君の家に立ち寄った。家人に歓迎された翌朝は、もう陽が燦々。そこで海水浴を提案した。
「グッドアイディア」S君は喜び、中学生時代の友で商船大生「ろくさん」も、ついでにと誘った。
小船で十分ほどの浜には、飛び込み用の脚立があった。久し振りだと張り切った私、板の先端につま先で立った、その時
「おい、なあ、ろく(ろくさん)、あっちから来るの、中学の時、一緒だった、波子じゃないか、ほら、神戸の医大に行った」
S君が、五人の先頭を指差し、言った。
「あっ、そうだ。その後ろは砂江みたいだ。ちょっと待てよ、なぎさと凪子もいる!」 その日の夜、星降る下で合流した四人と、ビールとバーベキューを楽しんだ。その後、フォークダンス。(恥ずかしいがり屋で踊れぬ私、孤独)
踊り疲れると中学時代の恋談義が始まった。(違う中学の私、またまた孤独)
数年後、S君と砂江、ろくさんと波子が華燭の宴。その切っ掛けは浜での再会。と言うことは、遊泳を提案した私が、恋のキューピットだ。誰もが、イメージするキューピットとは、似ても似つかぬ容貌の私ではあるが。
我が家の墓の在りかを知った半年後、S君の夫人、砂江さんから沈痛の電話。
「主人が、今朝の六時に亡くなりました。大腸がんが肺に転移しまして・・・・・・」
「こいしが死んだら、お参りに来る」と言ったS君、還暦を待たずに逝った。
己の死を知っていて? 知らずして?
(2〇14年9月 こいしノートより)
(見上げる銀杏 まだ黄葉していません)
(他の樹々も、紅葉はまだまだです)
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