寄り道
お彼岸に入りましたので、祖先が眠る雑司ケ谷霊園へ向かいました。今日は雲一つない良い天気です。なので久しぶりに、その界隈をゆっくり見て歩き、それからにしました。
先ず最初は、太平洋戦争の指導者と言われる人 が拘置されていた「巣鴨プリズム」の跡地です。あったその頃は陰雲のイメージだったと聞きますが、今は一片もなく、家族や恋人、若人等が楽しむ施設もある「池袋サンシャイン60」になっています、時の流れでしょう。
中央通り(※グリーン道り)には、昔、「ジャズ喫茶D」がありました。当時のこいし(私)ミーハーで、テレビで見る、売れっ子の歌やトークを聴きに、親には内緒、学校には見つからないように私服で、よく通いました、高2の三学期の頃でした。
その場所も、もうなく、ありふれた商業ビルになっています。これもまた、時の流れでしょう。
道路を横切り、少し進むと「日蓮宗・本立寺」が右に見えます。喧騒街の唯一の静寂な場所です。境内にはベンチもあり、夫婦かな? 茶飲み友達かな? 老いた男女が親密に話しています。
それは見ぬ振りして、参詣しようと本堂の前まで行ったのですが、賽銭箱が見当たりません。「どうして?」疑問が解けぬまま、山門を離れました。
「鬼子母神」にも寄りました。そこで初めて知ったのは「鬼子母神」の鬼の第一画目の「点」が、ないことにです。
(※コンピュータの機能では表示できませんので、下段の写真を見て下さい)
そばにいた、学者風の中年の人に疑問を問いますと「鬼子母神が釈尊に諭されて改心したので、角が外れた」と、得意げに答えました。ですがこれだけでは消化不良、帰宅後、ホームページを見てみました。
「その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉人の娘で、嫁して多くの子を産みました。
しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。
お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は『千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん』と戒めました。
そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育ての神になることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています」
やっと目的地の霊園に着きました。ここには著名人の多くが眠っています。
(※下段の写真を見て下さい)
こいしの祖父母や両親も? とんでもない、偉人を輩出するような家系では、毛頭ありません。
祖先に言葉を掛け、来た道を戻るさい、新しい墓石が目に入りました。何げなく墓誌を見ますと、長い人生を送ってきて、この人の他には聞いたことのない、珍しい女性の名が刻まれていました、姓は違っていましたが。
高3の秋の頃、通学するバスの中で都立高校(※こいしは私立男子校)に通っている、墓誌に載るその人と知り合い、何度か「石神井公園」でバスを降り、ボートに乗ったり、ベンチで語らい合いました、時には、一番星が輝くまでも。
「卒業しても、逢おうね」と、約束したのですが、それっきりになりました。
「今はどうしているかなあ? 逢ってみたいなあ」
時には思ったりもしていました。
何時かは、こいし、ここに埋骨されます。そうなった時「彼女の墓までトンネルを掘り、逢いに行こう」
帰路、そのような夢物語が頭を過ぎりました。灰になっても、恋の煩悩を捨て切れない、こいしのようです。
(鬼子母神)
鬼の点がないの お分かりですか?
(本立寺)
賽銭箱 ないでしょう 手前にベンチが二つあります
( 雑司ケ谷霊園に眠る著名人)
(霊園の案内図より)
クリック お願いします