たがいに惚れていたけれど
たがいに惚れていたけれど
四年ほど前に「男はつらいよ・寅次郎の旅路」の上映会と、竹下景子さんが「寅さん」をトークする招待券を、知人から貰った。
当日は朝から大雪が舞い、夕刻まで続くとの天気予報。銀幕スターは得てして我がままと聞く。この悪天候では、何かにこじつけ、竹下さん、来ないのではと案じたが、スクリーンで見る美しさと声、そのままに「風に吹かれ、気ままに全国に行く潔さ」と、寅さんの魅力を、にこやかに語ってくれた。
「寅次郎心の旅路」は何度か見たが、兵馬(※寅さんと一緒に旅する人)が、オーストリアで恋した娘の名がテレーゼということに、初めて気づいた。
ドイツの詩人、ハイネの詩集「歌の本」の下巻三十三番に「たがいに惚れて」というのがある。
「たがいに惚れていたけれど
うちあけようとしなかった
かえってつれないそぶりして
恋にいのちをちぢめてた
しまいに会えなくなっちまい
ただ夢にだけ出会ってた
とっくにめいめい死んじゃって
それさえてんで知らなんだ」
主人公(ハイネ)は従妹のアマーリェに恋したが、失恋。するとすぐに、アマーリエの妹、テレーゼに心を寄せる。しかしこれも失恋。この時の心境が、この詩を創作させたのだろう。
私は二十一歳の時、北海道紋別市から上京し、観光事業の専門学校に通う、老舗旅館の一人娘と、週二回の英会話学校で知り合った。
彼女はハイネの詩が大好きで、貴方も好きになって欲しいと、喫茶店の片隅で、また季節の花が美しく咲く公園で「歌の本」の抒情詩を心を込めて読み、その後、背景や人間関係を、夢見る乙女のように語った。
そのような日々が続いていた、ある日、彼女の母親が急逝した。女将のいない旅館は成り立たないのか、葬儀で帰ったきり、戻ってこなかった。
寅さんを楽しんで家路に向かうさい、テレーゼの名前から「たがいに惚れて」を思い出し、そして夢見る乙女を思い出した。
流氷寄せる街で、どんな暮らしをしているだろう。一目でも良い、逢いたいものだ。
「あんポンたん」は、これにて終了します。
次回は「ぞうのはな子」の予定です。
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「あんポンたん」の梗概
猛暑が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。お元気なら、なによりです。
今日は前回に、お約束しました、ユーモア小説「あんポンたん」の梗概です。
第一部のエッセイは十二編からなり、十七人が登場します。そのうちの十一人は亡くなっています。
第二部になりますと小説に変わり、その人たちが極楽浄土にある、蓮華の花咲く池のほとりで、間もなく来るだろう、私を迎える同窓会を開きます。
西方十万億土の彼方まで旅し、疲れきった私は、一休みしてから参加することにして、車座になっている出席者の様子を見ています。
前置きが長くなりましたが、それでは始めます。なお……の間の文言は、省略箇所や状況の説明です。
左心房と左心室の間に僧帽弁、右心室と右心房の間には三尖弁(さんせんべん)がある。私はこの二つが閉鎖不全なので、ここ十四年、薬で進行を抑えていた。
しかしもう限界ということで、主治医が
「体力があるうちに手術しませんか、手術危険率は二%前後です。家の方と相談して下さい」と言う。
生き死には私ごと、考えることなく「お願いします」と、頭を下げた。
無影灯の照射が眩しい。「麻酔をかけますよ」医師の低い声。
「お願いします」
私は目を瞑り、麻酔が醒めなければ西方へ行く、そこには誰がいる? ふと思った。が、意識はそこまでだった。
……亡くなった十一人が同窓会の席上で、私の思い出を語るのですが、梗概なので、前々回のエッセイ「さしみの妻はいや」に登場する、長崎壱岐夫のだけとします……
「私は肝臓を壊して十五年前にここの住民になりました、長崎壱岐夫、五十一歳です。どうぞよろしく。
モッチン(私のニックネーム)と、大学三年の春、天城山を縦走しました。
万二郎岳から万三郎岳へ向かうと、伊豆の山々や大島、利島が美しい岩場に出ます。その風景に見とれていましたら、後から来た女性二人が、微笑みの会釈をしてくれました。
二人は大手銀行の静岡支店に勤めていて、少し色黒でぽっちゃりしているのは駿河浜子さん。やはりぽっちゃりしているのですが、透き通るほどの白い肌の女性は、藤枝静江さんで、彼女は夜間大学の学生でもありました。
私たちは偶然の出会いを大切にしまして、東西に別れる三島駅まで同行しました。
四日後、浜子さんから、手紙が来ました。
貴方が好きになった。再会場所の大瀬海岸の夜、ずっと二人でいたい。静江とモッチンがペアになってくれれば、望みが叶いますが、残念ながら、静江は面食いなので、モッチンには、なびかないでしょう。どうすれば二人になれるかを考えてください。
このような内容でした。
二日後、静江さんから
「私を好きになってください。そしてそれを愛に、更に恋に発展させてください」
と、書かれた手紙が来ました。
私も、静江さんが好きでしたので、天にも昇る心地になりました。
二人の手紙には、再会したいと書いてありました。なので、モッチンを誘いました。そうしましたら「一人で行けよ」と、不機嫌な顔で、つっけんどんに言うのです。友達がいのない男でしょう。
大瀬崎海岸での静江さん、ビキニの水着姿でした。縦走するさい、夜間大学に通うのは、弁護士になりたいからだと、言いました。
美人でグラマーで、向学心に燃える静江さんが、更に好きになりました。
こうなりますと、浜子さんが厄介です。なので、大瀬崎海岸で再会した時、モッチンを褒めまくり、交際を薦めました。そうしましたら、浜子さん、目を三角にして『見くびらないで!』でした。この話、モッチンにはオフレコで、お願いします」
……この言葉に皆が揶揄します……
「(みんな)嫌だ、嫌だ、オフレコは嫌だ。
喋りたい、喋りたい。
静江とは、どうなった、どうなった?」
「(壱岐夫)振りました」
「(みんな)嘘だ嘘だ。振られた振られた」
……冗談の掛け合いの後、壱岐夫が次の人を指名します……
次は静江さんより、もっともっと麗しい北見さん、お願いします。まさか、モッチンに恋した話ではないでしょうね。
「(みんな)ない、ない)」
ごめんなさい、それです。
「(みんな) ええっ、ええっ) 」
……-無二の親友と思っていた壱岐夫に裏切られ、怒った私、声高に叫びます……。
「よくもよくも、ばらしたな。おまけにオフレコだなんて。俺もばらすぞ、静江に振られた時の醜態を。それと二人の手紙、自慢そうに見せただろ。見たら、行くわけない!」
……ところが不思議なことに、声が届きません……
……壱岐夫に指名された北見さんも、私の悪口です。続く九人もそうです。私は、いたたまれなくなり、残りの二人の話を聞く前に、閻魔大王に地獄行きを頼みます……
「地獄だと? 歓迎されなかっただと? どれもう一度、閻魔帳を見てみよう。ありゃりゃ、一頁,飛ばしてるぞ。
ヴェスペレを聴きに行った時、道に迷って女高生に案内してもらった、その際、お前は女高生を見習って、誰にも親切にすると、心に誓った。だが一度としてなされてない。
大雪が舞う夕方ちかく、市役所から駅まで女性に車で送ってもらった。その御仁が『困っている人を見ましたら、できる範囲で手を差し伸べて下さい、そういった輪が広がって欲しいの私』と、お前に頼んだ。
(前回のエッセイ「わかい日にであっていたら」)
だがこれも一度としてなされてない。この頁を飛ばしたのは我が落ち度。宜しい、叶える。ただし、元の場所にだ。
これから死ぬまで善意を施せ。さすれば、次に来た時、歓迎される。さあ、後ろを向け、手を伸ばせ、前屈みになって尻(ケツ)を突き出せ! そら、蹴っ飛ばすぞ、えーい」
……私は閻魔大王から蹴飛ばされ、麻酔から醒めます……
「あら、お目覚めね。私、主治医以外の担当(看護師)の榊マリコ、よろしくね。
患者さん、寝てた、二十六時間、面白いことたくさん言ってたわ。閻魔さま、地獄へ行かせてだなんて。
何人もの、女の人の名前、呼んでたわ。どういった関係だったの。誰にも言わないから、教えて。おほほほほ」
……極楽浄土で私を語る、残りの一人は小学校の恩師、もう一人は中学生の時に知った、違う中学の女生徒。恩師は私に同情し、女生徒は、逢いたい旨を切々と口にした。
同情した全員、声を揃えて私を呼ぶ。
「早く来い来い、あんポンたん」
「早く来い来い、あんポンたん」
女生徒が続いて
「早く来て来て、あんポンたん」
「早く来て来て、あんポンたん」
次回のエッセイは、壱岐夫が話しました
「静江より、もっともっと美しい北見さんに、お願いします。まさか、モッチンに、恋した話じゃないでしょうね」
彼女の思い出を書いた、エッセイです。
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わかい日にであっていたら
三年前、モーツアルトのヴェスぺレ(宗教音楽)を聴きに、JRの池袋駅から、目白台にある演奏会場の教会まで、いつもの散歩道に変え、歩きました。今日はその話で、これも「あんポンたん」の中の一編です。
わかい日にであっていたら
雑踏の駅から、しばらく行くと護国寺が目に入った。古都の寺社は良く行ったが、この寺はまだない、灯台下暗しである。開演にはまだ間があるので、寄ることにした。
山門をくぐると重要文化財に指定された本堂がどっしりと構えている。説明の立て札を二度ほど読んだ後、じっくり時間を費やして鑑賞し、あたりの樹々や草花も見ていた。そうしていた時、バギーを押す、ふくよかなお婆さんが
「ふるさと(豊島区の夕焼けチャイム)が鳴ったよ。さあもう帰ろうね」
と寝入る、女の児に話しかけた。
「えっ、もうそんな時刻?」
驚いて時計を見ると、開演まで一時間を切っていた。焦った私は、ネットで出した地図を無視し、三角形の底辺だろう路地を闇雲に進んだ。その結果、自分の今いる場所すら、分からなくなっていた。
少なくとも方角だけは知ろうと、少し大きい通りへ出て、あたりの風景を眺めた。すると遠くに教会の鐘塔があった。
「しめた、あそこだ」安心した私は、鼻歌まじりで到着した。ところが、そこには人っ子一人いなかった。演奏会場の教会ではなかったのである。
その時、地獄で仏、犬を散歩させるお爺さんが、向かって来た。さっそく聞くと
「それなら、三つ目の信号の手前に女子大があるから、そこを右に少し行った所だよ」
丁重な礼を言い、急行すると、何とそこは閑静な住宅街だった。
もうろく爺か、それともいじわる爺なのか、どちらにしても、腸が煮えくり返った。
あたりに人がいないので、最後の手段、主催者に電話で聞くことにした。そこで、入場券を財布から取り出して見ると「東京メトロ有楽町線護国寺駅徒歩五分」と、ただそれだけだった。
途方に暮れていると、女高生が遠くから向かって来る。そこで、不審に思われないように、それでも早足で歩みより、神に祈る気持ちで聞いてみた。すると
「帰り道ですから、ご一緒しましょう」と、爽やかな笑みで言う。
帰り道は嘘だと思った。案内した後、暴漢や痴漢に襲われたり、不慮の事故に巻き込まれたら、申し訳ない。そこで指示のみを求めた。だが聞きわけのない、お嬢さんだった。
「学校帰りですか?」
「ええ」
「どちらの学校なの?」
「池ヶ岡女子です」
「進学校で有名な、池ヶ岡?」
「皆はそう言いますけれど、私、そう言われるの、とても嫌よ。おじさんはどこの学校なの?」
「僕? 僕はね、私立不良学園高校」
「まあ、面白いおじさまだこと。不良学園高校なんて、聞いたことないわ」
言ってすぐ「おほほ」と、小さく笑った。
思いも寄らない、お嬢さんの親切で、やっと到着した。感謝を口にすると
「帰り、心配だなあ。そうだ、皆について行って。そうすれば護国寺駅までは行けるわ。そうしてね。そうするのよ、絶対によ」
病弱な弟を諭すかのように言うと、くるぶしを返し、来た道を早足で戻って行った。帰り道はやはり嘘だった。
その十年ほど前、同じような親切を受けた。日野市役所へ指名参加の申請に行ったさいである。受理されるには細かい審査があり、相応の時間が掛かる。また最終日だったので申請人が多く、入った時はどんよりしていた空が、出る時は吹雪いていた。
次の八王子市も最終日、携帯傘を手に、門を出た。するとクラクションの音。振り向くと、若い女性が近寄ってきて
「駅に行かれるのでしたら、お送りしますよ。通り道ですから」
雪を遮るように目を細めて言った。
今の時世にこの親切は考えられない。素人女を装った、美人局(つつもたせ)? 躊躇していると「遠慮なさらず、さあどうぞ、どうぞ」
私の背中を押した。
それにより濡れずに、そして早く着いた。その謝礼を申し出ると
「結構です、その代わり、困っている人を見ましたら、できる範囲で手を差し伸べて下さい。そういった輪が広がって欲しいの、私」
親切の嘘をついた女高生、親切の輪を広げたい女性、若い日に出会っていたら、忘れられない人になっていただろう。
小説「あんポンたん」の内容が知りたいとのコメントが、数人の方から入りましたので、次回はその概略を書きます。
「なーんだ、つまんないの」と、おっしゃられるのを覚悟で。
これからも、猛暑続きそうです。お体にはくれぐれも、お気をつけください。
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さしみの妻はいや
前回のお約束どおり、今回は持てなかった話で、このエッセイも、ユーモア小説「あんポンたん」からです。
さしみのつまは嫌
大学に入っての初授業は和文英訳だった。他校から来ていた講師は、自己紹介することなく、哲学的な長文を黒板に書き、入学年度と出席番号が同じ、ただそれだけの理由で、私に訳を指名した。
無い頭をフルに使い、やっと終えて席に戻ると、腕を組んで眺めていた講師が
「よくまあ、これで入学できたものだ」
軽蔑しきった口調で言った。するとすぐ
「よくまあこれで入学させたものだ」
と、私の列の後方から、講師そっくりな口調で、誰かが揶揄した。
てっきり、私と思った講師は
「出来ねえくせに、ふざけるな? お前なんぞ、教えたかねえ! 出てけ!」
怒鳴るように言い、ドアを手荒く開けた。
これはまさに濡れぎぬである。抗弁を考えたが、この興奮状態では、火に油を注ぐだけ、ほとぼりが醒めた頃にと決め、教室を後にした。
とは言え、教室が気になり、ドア越しに耳をそばだていた。そうしていると、後方のドアから、そっと出てきた、長崎壱岐夫と名乗る男が、九十度に身体を曲げて謝った。
「犯人は俺なんだ。本当に申しわけない。責任とって、この授業を捨てる。これで勘弁してくれ」
必須科目の単位が取れなければ、卒業できない。それが嫌なら、追試で合格するほかない。それには追試料が課せられる。
年間を通して授業に出ていれば、試験の点数がよほどでないかぎり、単位は貰える。しかし、追試にはそういった温情はないし、満点取っても最低の「可」だと言われている。それは、就職試験の学内選考にとても不利。それらを承知で捨てるとは、見上げた男。私は学校脇にある喫茶店に誘い、友達宣言をした。そして私も授業を放棄することにした。
三年生になるとゼミがある。その授業中、壱岐夫が窓越しに私を手招く。そっと抜け出し、用件を聞くと
「今から天城山縦走に行きたいんだけど、一人じゃ、不安なんだ。一緒に行ってよ、費用は俺が出すから」
と、片手で私を拝んだ。
思いがけない言葉に疑問を持ち、今からの必然性と理由を問うた。すると
「君のゼミ、先生が熱心で、いつ終わるか分からない。こないだなんか、十一時までだったそうじゃないか。今日もそうだと、明日中に縦走できないよ。だから早めに行って、宿屋を確保したいんだ。それと理由は、気分転換だと思ってくれ」
五月の連休前、壱岐夫は「俺に惚れた女が上京する」と、自慢げに言っていた。
「ははーん、振られたな、で、その気分転換なんだな。俺にもその経験、何度もある」
自分の時を思い出し、母の急病を理由にゼミ室を後にした。
万二郎岳から万三郎岳に向うと、山々や諸島が一望できる岩場に出る。その風景に見とれていると、後から来た女性二人が、微笑み会釈した。たちまち壱岐夫の目が輝いた。
二人は大手銀行の静岡支店の行員で、ぽっちゃり形は駿河浜子、色白で痩身は藤枝静江と言い、静江は夜間大学生でもあった。
壱岐夫が同行を求めると、二人は嬉しそうにうなずいた。それにより、万三郎岳、天城トンネル、浄蓮の滝を楽しく巡り、そして別れの三島駅に着くと酒処の暖簾をくぐり、偶然の出会いに乾杯し、再会を約束した。
一週間経ったころ、壱岐夫が喫茶店に私を呼び出し「気分悪くするなよ」と前置きし、浜子と静江からの手紙を差し出した。
浜子の内容は、おおよそこうだった。
「貴方が好きになったの、仕事が手につかないほどよ。(中略)再会場所は大瀬崎海岸に決めました。富士山を眺めながら、泳ぐのはとても素敵だわ。
その日の夜は、貴方と二人だけでいたい。どうすれば、できるかしら。静江が彼氏(私のこと)に恋してくれれば問題ないのだけど。でも、残念なことに、静江、面食いなの・・・(後略)」
私は、浜子には興味がないので、何を言われようと気にしないが、静江は別である。愛とか恋の一文字を願って、手に取った。
静江の内容は、おおよそこうだった。
「家庭は妻が主人公、妻の喜びを励みに夫は働く、それが理想と壱岐夫さんは、おっしゃいました。そのように考える貴方に、私、好意を強く持ちました。(中略)
浜子が真剣な眼差しで、貴方に恋したと言いました。浜子は私の親友です。ですが、貴方は譲れません、絶対に。
大瀬海岸で再会した折り、どうか私をしっかり見ていただき、私を好きになってください。そしてそれを愛に、更に恋に発展させてください」
続く文章には、生い立ち、家庭環境、兄弟の状況、夜間大学の苦労話、そして将来は弁護士になりたいとも書いてあり、私に関しては、まったくなかった。
壱岐夫は海水浴を、しつこく誘うが、さしみの妻は嫌、即座に断わった。
二学期になって実家から上京した壱岐夫は、その日に私を喫茶店に呼び、おもむろに大瀬海岸でのスナップ写真を、差し出した。いずれも壱岐夫と浜子、静江とのツーショットだった。
「面白くねえ、なんだ、このにやけた面!」と心の中で言いつつ「楽しかったみたいだね。写真にそう写ってるよ」
と、裏腹な言葉を口にした。すると気を良くした壱岐夫は、二人の水着姿の大きなカラー写真を、テーブルに並べ
「見てみ、浜子、グラマーだろう。静江も負けてないよな」
二人の写真の身体をなでながら言った後
「十月になったら、河童橋と大正池へ行くことになったんだ。泊まる温泉宿は、静(静江)ちゃんが探すんだ。
俺一人では、二人の面倒見切れないので、君は浜子の面倒見てよ。浜子は純真で可愛いい人だよ。これを機会に、つきあったら? 俺がうまく取りなすから」
冗談ではない、浜子なんか、真っ平だ。河童橋なんか、死んだって行くものか、即座に断った。
その後の壱岐夫と静江の関係は、そうとう熱くなったが、八年後、壱岐夫の結婚式に呼ばれた時、白いドレスを着ていた人は、会社の上司の娘さんだった。
青春なんて、こんなものでしょう。
次回も「あんポンたん」の中からのエッセイで、純真な若い女性と女学生との出会いです。どうぞ、遊びに来てください。
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指きりしたのに
私は昨年の秋「あんポンたん」というタイトルで二部作を書き上げました。第一部は思い出の人を綴ったエッセイで、第二部はエッセイの中で登場し、既に極楽浄土の住民になった人達が、もう来るだろう私の歓迎会を催すという、ユーモア小説です。
本日は、そのエッセイの中から「指きりしたのに」を載せます。ご笑読いただければ、幸いです。
「指きりしたのに」
雨戸の隙間から朝日が射す。寝巻きを正して開けると雲一つなく、旧家のいちょうが見事に色づいている。それを目にして、一年先輩の綾歌さんも含めて、大学のサークル仲間と紅葉狩りに行ったことを思い出した。
綾歌さんは宮崎の人で、素封家の娘だけを対象とする、寮に入っていた。そうであっても、ひけらかすことなく、誰にも優しく、そして美形なので、サークルの男連中は恋心を抱き、見るも哀れなほど献身していた。
私? 私ももちろん抱いたが、アタック競争には参戦しなかった。成績も育ちも悪いし、ずんぐりむっくりでは一回戦でコールド負けし、本人からも、サークル全員からも、嘲笑されるのが落ちなので。であっても、一縷の望みを持ち、繊細な神経で接していた。
卒業旅行はグループでが多いが、それだと制約があり、それが嫌で独り旅を企画した。そのことが卒業後、故郷へ帰り、高校の化学の教師になっていた、綾歌さんの耳に入った。それにより、天にも地にも掛け替えのない、速達が届いた。
「学生時代、愛情をもって、おつきあいしたつもりですが、九州旅行を知らせてくれないなんて、悲しいわ。ですけれど知ったからには、風光明媚な日南海岸を車で案内します、嫌でもですよ。
それと、天孫降臨神話にまつわる名所旧跡が多い、高千穂も案内します。天然記念物の渓谷も見ものです。
父にそのことを話しましたら、竹田市の、叔父さんの家に泊まったら良い。そうなら、安心だと言いました。何が心配なのでしょう、 貴方、分かりますか?
それはそれとしまして、父が『荒城の月』ゆかりの岡城跡も見学コースに入れたら良い、きっと喜ぶよ、とも言いました。
高校時代は男子の名前を口にするだけで不機嫌になる父でしたのに・・・・・・。大学時代、帰郷するたびに、貴方のことを褒めていたからかしら。ともあれ、貴方に好意的なことは、とても嬉しいことです。
私は一学年といえども、先輩です。何ごとも私に逆らうことは許されません。旅行計画に高千穂行きの一泊を加えなさい。
学校は春休み中なので、いつの日でも空いています。二人だけの思い出を、ぜひ作りましょう」
明朝から二日間、綾歌さんを独占できる。その高揚で、夜汽車の灯が落ちても眠れなかった。そこでポケットウィスキー。ところがそれが悔やむ結果をもたらした。
宿泊代を倹約しようと夜汽車の連続、その疲れもあってか、ウイスキーで熟睡し、待ち合わせ駅を寝過ごしたのである。
乗車している急行列車が、次に止まる駅までは三十分。ユーターンする列車の到着は四十分後、そしてまた、三十分。やきもきしながらの一時間四十分、やっと綾歌さんに逢えた。
綾歌さん、私を見るなり
「午後は会議なので、午前中だけでも市内を案内するって、父が待ってたの。でももう、時間がないって、会社に行ってしまったの・・・・・・貴方を見て欲しかった・・・・・・私」
残念、悲しい、恨めしい、それが入りまじった表情で言った。
日南海岸をドライブし、そのまま竹田市へ行き、叔父さんと叔母さんに歓迎され、地元家庭料理を口にして、あきれられない程度に地酒を味わった。
翌日、城跡を見学した後、高千穂で遊び、一泊二日の二人だけの旅は、あっという間に終わった。後ろ髪を引かれる思いで別れの駅まで来ると、プラットホームで見送ると言う、綾歌さんが
「六月の終わりに横浜で、友達の結婚式があるの。その時、逢って」
と、せがんだ。
就職する会社には全国に支店や営業所があり、勤務地をまだ知らされていない今は「必ず」は無理だと答えた。すると
「嫌よ、そんなの。それなら、結婚式は出たことにして、赴任先へ行くもん。父や母に嘘つくのは辛いけど、絶対にそうする。その時は逢ってね、約束よ」
と言い、指切りを強いた。
ところが、六月半ばを過ぎても、連絡がなかった。そこで、その理由を問う手紙を送った。
二週間後、暑中見舞が届いた。
「幼い従弟たちとセミ取りをしています 網で押さえることのみが面白いので その後 すぐに逃がします だってセミは七日間しか生きられないでしょう お元気で お元気で いつまでも いつまでも」
これでは、真意がつかめない。そこで、残暑見舞いで再び問うた。だが梨の礫だった。翌年の年賀状も来なかった。
「時間を守れない、それも酒を飲んで寝過ごして。そんな男は見込みなし」
綾歌さんの父の声が聞こえる。
今回は、もてたようなエッセイでしたが、次回はその反対で、大恥をかいた話です。お暇でしたら、お立ち寄りください。
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思いでシリーズ(二)
暑い中、ブログ村のセカンドハウスにお越しいただき、誠にありがとうございます。猛暑の日々、熱中症にはくれぐれも、お気をつけください。部屋の中でも多いそうですよ。
「思いでシリーズ(二)」
母は平成十六年五月、心不全と心房細動で東京西部に位置する病院へ転院した。それから三年八ヶ月後の平成二十年の冬のある日、見舞う私に母が、思いも寄らないことを口にした。
「お父さんが、鉄砲玉みたいに出ていって、三月も連絡がないの。女のところでも、どこでも、どうってことないけど、電話の一本ぐらい寄こすのが当たり前でしょう。ねえ、そうでしょう。
子煩悩な人だから、あなた方、子供の誰かには電話があったと思うの。のりちゃん(※私の姉)に聞いたら、とっくに死んじゃったって言ってたけど・・・・・・。まさか、兄妹みんなで隠しているんじゃないだろうね」
父は昭和四十一年に脳梗塞で倒れ、意識が戻らないまま、一週間ほどで逝った。四十数年も前とは言え、苦楽を共にしたであろう、良人を忘れるとは、どう考えても理解できなかった。
この疑問を電話で姉に話すと「まさか」を連発し、明日、確かめてくると言った。
翌日の夕方、姉より報告があった。
「一週間前に『お父さんは、とうに死んだわよと』話したのを、お母さん、信じなかったわけだから、葬式の写真を見せたの。そうしたら、参列した人の名前をすらすら言った。なので、その時は、まともだと思った。
でもね、その後すぐ、誰の葬式って聞くの。『お父さんのに決まっているでしょ』て言って、お父さんの名前が真ん中に書いてある、葬儀看板の写真を見せた。それでやっとよ、納得したの。
それとね、脳溢血で倒れたことや、家族が徹夜で看病したことなんか、ぜんぜん憶えてないの。お母さんの大脳、どうなっているのかなあ、切り開いて見てみたいよ」
姉の気持ち、私も同感である。
姉からの電話の翌日、母を見舞うと
「のりちゃんから、昔の写真を見せてもらったけれど、みんな、死んじゃったねえ」と、ため息まじりで言った。
多くの人は元気だよ、勝手に殺さないでよ、心の中で母に注意した。
母はその頃から、忘却が激しくなり、八月には、次兄が誰なのか分からなくなっていた。それから間もなく、六十余年も一緒に過ごし、病院の利用者保護者でもある、私も記憶から失われた。が、長兄と長女は最期まで忘れなかった。
母が健康だった頃は「どの子にも、一度だって分けへだてしたことなんかありませんよ」と、誇らしげに言っていた。
「ほんとうにそうだったの、母ちゃん? えこひいきしてたんじゃないの?」
私があの世へ行ったら、母に一番で聞いてみようと思う。
次のエッセイは、もしそうなっていたら、私の人生は大いに違っていただろう、です。
どうぞ、遊びに来てください。
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思いでシリーズ(一)
日本ブログ村にセカンドハウスを持つのが夢でした。それがやっと叶いまして昨日、竣工しました。月に二度ほど部屋の空気を入れ替えに行きます。粗末な狭い所ですが、どうぞ遊びに来てください。お待ちしています。
「思いでシリーズ(一)」
平成四年のある寒い日、母はデイサービスでの食事中、心房細動に襲われ、急救病院へ搬送された。一週間ほどの治療で小康を得た時、ベッドの数を確保しておきたいとの理由で、転院を申し渡された。
不安いっぱいの私に、純和風顔で温厚な女性主治医が、武蔵野にある病院を推薦し、こう言った。
「そこの病院はここの系列で、以前、私、勤めていました。環境がとても良くて、スタッフの方、皆、優しくてしっかりしています。ぶり返した時は、ここでまた受け入れますから、心配なさらないでください。
それと、お母さんは、いつなんどき、何があってもおかしくない状態ですから、昼夜監視が必要です。『家に帰りたい』と言い出しても、家での介護は絶対に無理です。耳を傾けないでください」
主治医の危惧は現実となり、見舞いに来る誰彼なしに「帰りたい」を哀願し始めた。
気持ちは痛いほど分かるが、聞きたくないなあ、嫌だなあ、そう思いながら、それでも覚悟して行くと、思いも寄らぬ言葉「デルを死なせたことで子供たち、恨んでいるだろうねぇ」だった。
デルは白と黒のぶちで、柴犬の雑種。昭和二十三年、男三人の中での一人娘なので、目に入れても痛くない長女を連れて年始回りをしていた父が、生後間もない子犬の引き取り手を探す、その家の夫人の「貰い手がなくて困っているの」その言葉に、酔った勢いもあって、つい引き取った犬である。
家人を噛む悪癖を持ってはいたが、よく芸をこなし、和ませてくれていた。ところが、三年過ぎた初秋、家の近くを走る電車に轢かれ、左の前脚と後ろ脚を失った。その日の夜、小学二年の幼い私を除いて、デルのこれからについての、話し合いがもたれた。
数日後、学校を終えて家の垣根まで来た時、デルが養生する納屋から、父母と聞きなれない男の声が聞こえた。
そこでそっと近づき、背伸びして格子の窓から覗くと、獣医と父母がいた。デルは身動き一つしない。
容態が急変し、獣医に頼ったが手遅れだった、と解釈したが、そうではなかったのである。
次兄は両親に滅多に逆らわない。その次兄が下校してデルの死を目にし、母に何かを問うた。その答えを耳にすると、激しい怒りをぶつけた。そしてその日以来、家族の誰もがデルに関しては口にしなくなっていた。
母が言う「デルを死なせたことで、子供たち、恨んでいるだろうねぇ」その真意を知ろうと、当時高校二年の長兄と中学二年の次兄、そして小学五年生だった姉にメールを打った。するといっせいに、返信メールが届いた。
長兄からは
「事故の夜、デルの今後についての家族会議がありました。僕は二本の脚を切断されてもそれでもまだ、家族に尾を振るデルが哀れで、できるものなら生かしてやりたいと思いました。ですけれど、あの状態ではむしろ、かわいそうかな、という感情もあったように思います。僕より、弟が生かすことに熱心だったと記憶しています」
次兄からは
「一晩でなく、三晩ぐらい生きていたように思います。庭の右手にある納屋の中で寝かされていましたが、時間が経つうち傷口が腐ってきて悪臭が漂うようになり、生かすか殺すかの議論があったように記憶しています。結論はなかったように思います。しかし雰囲気としては駄目だろうと言う感じでした。
傷口が治ったとしても、二本の脚で健康に生きていけるかは大いに疑問でした。私は生かすほうに努力すべきだと主張しましたが、その点については心の中で疑問に思っていました。しかし、積極的に殺すと言うことは絶対に言えませんでした。
学校から帰って泣いて怒りましたが後の祭りでした。しかし『なぜ、生かさないで殺してしまったのだ』という感じよりも『何で俺を納得させた上で、殺してくれなかったのだ』という、裏切られた気持ちの方が強かったように思います。心の中でも『こうせざるを得なかったのだ』という気持ちもありました」
姉からは
「轢かれた夜は生かそうと皆が思ったと思いますが、翌日には、お腹にうじがいっぱい湧いたのです。傷口も腐ってきたので、親たちの結論は飼い切れないと判断したのでしょうね。子供の判断には従えなかったのだろうと思います。学校から帰った時は、もう埋めてあり、こんもり土が高くなっていたのを、はっきり憶えています。みんなで、えんえん泣いたことも憶えています」
翌朝、兄姉からのメールを母に読み聞かせた。すると「みんな分かってくれていたのね、良かった。でも、やっぱり、みんなに安楽死させたいと話してからだったわね」
と言い、ほほ笑んだ。
この言葉を兄姉にメールした。すると文言は違うものの「早く話せば、気に病むこともなかったのに。ふだんあんなにおしゃべりなのに」このようなコメントが返ってきた。
母にこのことを話すと「そう言うだろうと思っていたよ」と言って、三日前と同じようなほほ笑みを見せた。
それから四年、百歳になっていた母は、旅立った。
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