こいしノート

エッセイ読むのも書くのも大好き人間です、小説も。 

フォークダンス大会

 こいし(私)は、フレークの缶詰が大好物、それも「星〇水産」のマグロ。ところが近くの店では扱っていない。なので、歩いて四十分ほどの市場へ買いに行く。今日もその目的で向かっていると、通り道にある体育館の入り口に「フォークダンス大会 入場無料」と、書いた立看板があった。無料に弱い、こいし、ちょっと覗いてみることにした。

観覧席の二階には出演者のだろう、手荷物が置いてあるだけで、観客はほんの数人だった。こいしは荷物から少し離れた席から、フロアを見下ろした。

そこには六、七十代に見える男女百人ほどが、大きな輪の中でペアを組んでいる。そして目と目をあわせ、取り合った両手を交互に上下させ、近寄ったり、離れたり、くるっと回ったりしていた。フレーズが変わると、パートナーが変わり、ステップしながら、左へ回り、また同じ動作だ。

こいしは、ふと

「老いらくの恋が芽生える? やもめ同士なら、微笑ましいが、そうでなければ、禁断の恋。それを家族が知ったなら? おお、恐ろしや、恐ろしや・・・・・・」

ダンスとは無関係な妄想に耽っていると、場内の監視員が、声を掛けてきた、不審顔で。

「知り合いの方、いらっしゃるのですか?」

物取り思われたら、心外だ。そこで

「いいえ、いません。若い頃から、興味がありましてね、それで見させてもらっています」

出まかせを口にした。

すると監視員、急に馴れ馴れしくなり

「そうなのですか、興味、おありですか。でしたら、例会に来られませんか? 月曜日の六時からで、場所は第九小学校でです。フォークは健康には最高ですよ、ぜひ、一緒にやりましょう。

 参加者はご覧のとおり、お綺麗な女性が大勢さんいます。汗をかいた後は『お疲れさま会』も、ありましてね、ビール片手に、わいわいがやがや、それはそれは楽しいですよ。

それと連盟の各支部が主催する、パーティーが毎月のように、ありましてね、私は気が合った女性と行きますが、もちろん、一人でも良いのですよ。知らない女性と手を取り合うの、それも新鮮ですよ」

と、甘い言葉でくすぐる。

 

 帰りははバスを利用し、その間、参加する、しないを考えていた。そのうち、あることを思い出し、遠慮することにした。思い出とは、こうである。

 中学の運動会で「オクラホマミキサー」と「マイム・マイム」を、踊らされた。その時、こいしの何人かのパートナーは、意図的に肩を組まず、手も握らない。それには相応の思いがあってだろうが、腹立たしかった。

「あらっ、あの男の子、女の子に嫌われているようよ。きっと、不潔な子なのね」

「そうみたいね。他の子は嬉しそうに、しっかり握っているのに」

観客席から、そんな会話が聞こえてきそう、逃げだしたい、三十分だった。

 

この歳になって再び、ここの女性にもされたら・・・・・・このことが頭を過ぎったのである。

でも「お疲れさん会」には、出席したいなあ。

 

 

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 コスチュームで若返る? 

 

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目白通りでは危ないよ

関越道に向かう大型車両も多い「目白通り」を横断しようとする、幼児とその祖母と思われる人が、ヨーイ・ドンの態勢を取っていた。そして、信号が黄色から青に変わると、全速力でこっちへ向かってきた。競争だったのだろう、この危険な光景を目にして、遠い昔を思い出した。

 

戦後十年、景気は上向いていたが、ピアノのレッスンを個人で受ける子は稀であった。であっても、T子は週三回、電車とバスを乗り継ぎ、一時間かけて通っていた。

五年生のクリスマスの日、百貨店のホールで催された演奏会へ、クラス仲間と聴きに行き、白のちょうちんブラウス姿で一心にピアノに向かう、T子にある種の感情を抱いた。

六年生になって、席が隣り合わせになり、それが、もっとになった。だが、それも束の間、八重桜の花が舞う頃、転校したのである。

ところが不思議、二級下の弟は登校していた。その疑問を担任に問うと「反対したのよ、だけど・・・・・・」ただそれだけを、美顔を曇らせ言った。

 

日本脳炎が猛威を振るった夏が過ぎ、二学期が始まった日、担任がT子から来た手紙の、おおよそを話した。

「転校して二ヶ月経つが、友達がいない。元の学校が恋しく、母に戻りたいと頼んだ。でも、駄目と怒られた。それでもと逆らったら、叩かれた。皆に会いたい、どうかクラス会に呼んで。先生からも頼んで」

 

児童委員長の美代子は、クラス会について全員の意見をまとめ、翌々日、T子の母を訪問し、告げた。その時のことを美代子が夕刻、電話してきた。

「Tちゃん、死んじゃったの、トラックに撥ねられて。Tちゃん、転校してから毎日、塾へ通って、それと週三回、家庭教師に来てもらっていたの。

撥ねられた日は家庭教師の日だったの。だけど塾のお勉強が長引いてね、それで帰りを急いでてね、交差点の信号が青になってすぐ道路へ出たの。その時、トラックの運転手が急ブレーキ掛けたけど、間に合わなかった。

Tちゃんのこと、先生に話したら、あの時、もっと反対していればって泣いていた。

反対って、なあにって聞いたら、こうなのよ。

Tちゃんのお母さん、Tちゃんを自分の出た、大学の付属中学に入れたかったけど、今の学校は程度が低すぎて、このままでは合格しない、そう思って、それで親戚の家に寄留させて、程度が高い小学校と進学率が抜群な塾へ通わせたの。

Tちゃんのお母さんが、転校の話しで学校へ来た時、先生、こう言って反対したの。

T子さんは優秀だから、転校しなくても大丈夫。心配なら、自分(先生)が放課後、責任もって受験指導するって言って。

たけど、お母さん、納得しなかった。

Tちゃんが、クラス会に出たいって書いた、先生への手紙、その日付、死んだ日だった。可哀そう、可哀そうだわ・・・・・・」

 

しっかり者で、何があっても涙しない美代子が、電話の奥で嗚咽していた。

 

 

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幼児と祖母が競争した横断歩道(手前) 向こうは四差路の交差点

 

 

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「水虫」と「かぶれ」は大違い  たった五分で

一週間前、左足の指が、むず痒かったが、ほっぽっておいた。

その五日後の夜は風雨が強く、ところが、朝になると雲一つない。それを見て、ハイキングに行きたくなり、天覧山(てんらんざん)を経て、多峯主山(とうのすやま)へ登ることにし、朝食もそこそこにリュックを背負った。

天覧山から、里山を少し進むと「飯能笹(牧野富太郎博士が発見、命名)」が群生し、また、常盤御前義経を追って東國へ向かうさい、あまりの景色の良さに何度も振り返ったという伝説がある「見返り坂」に着く。

そこまで来た時、ほっぽっておいた足の指が、ずきずきし始めた。見ると、二指と三指の根もとの皮膚が裂け、血が滲み、他の指もそれに近かった。それで慌てて、手持ちの水で洗い、タオルで拭き、その後、足を引きずりながら、多峯主山を目指した。

奥多摩、奥武蔵の山並を眺めながら、ビールとサンドイッチを口にするも、痛みが気になり、二十分もしないうち、下山。

県道へ出ると折り良く、薬屋があったので、老いた店主に症状を話した。すると

「水虫のようですね、これが良く効きますよ」

と言い、棚にある一番大きな箱を差し出し、さらに続けた。

「水虫は、白癬菌が皮膚の奥に深く入っていますから、治るのに日数がかかります。ですから、小さな箱では量的に足りません。これは三倍入っていて、お金は半分ちょっとです。ですから割安です。それと患部は良く洗って、それから塗ってください、たっぷりとね」

と、親切だ。

割安の言葉にまったく弱い、こいし(私)、千六百円を手渡し、それから、水道を借り、患部を徹底的に洗い、十分すぎるほど塗った。ひりひりするが、それは治る前兆、快感すらあった。

 

それから一週間、一日四回、患部を良く洗い、塗り込んだが改善しない。それどころか、足の裏にも症状が出てきた。疑問と不安が湧き、皮膚科を訪問した。

 

医者は一目見て

「これは水虫ではなくって、たんなる『かぶれ』ですよ。軟膏を貼付(ちょうふ)しておきます。処方箋を書きますから、薬局で買って塗ってください。四日もすれば、良くなります。それと患部は、ごしごし洗わないように」

診察時間は、たったの五分。でも夜には、痛みがもう取れていた。

 

薬屋の、おやじ(店主)を責める気は毛頭ないが

「信用しすぎたなあ、一週間、痛かった分、損したなあ」

 治癒した指を眺めながら呟く、昨今のこいしである。

 

 

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 天覧山 南側の風景です

  

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 見返り坂あたりの風景です

  

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 多峯主山 良い天気です

  

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 多峯主山 西側の風景です 冬の快晴日には富士山が見えるそうです

 

 

 

 

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クモ膜下出血は恐い けど 恐くない

先日、新聞に「○○さん クモ膜下出血で死去」との記事が載っていた。それを見て、Mさんを思い出した。

 十五歳上のMさんは設計なので、経理の私とは仕事上の繋がりはないが、会社の行事で席が隣になり、話すうちに気が合い、飲み友だちになった。

そんなある日、冗談を言っては笑わせるMさんが、深刻な顔で、こう話した。

「一週間前の朝にね、いつもと違った、ハンマーで叩かれたような頭痛がしたんだよ。でも、暫らくするうち、治まったんだ。で、午後から出社した。ちょっと心配だったけど、どうっていうことなかった。

それから一週間は何もなかったけど、おとといの日曜の朝、また、痛みがきてね、日曜当番医へ行った。そしたら、混んでいて、二時間待ちなんだ。それで、出直すつもりで、いったん、帰ったんだ。そしたら不思議、いつのまにか、治まっていた。だから医者には行かなかった。

来週からは高層マンションの実施設計に入るんだ。日本一の高さでね、百メートルを超すんだ。頭が痛いなんて、言ってられないよ」

深刻な顔を一変させて言い、その後

「どうだい 河岸、変えないか? 可愛い娘(こ)が脇につく、バーへ行ってみない? 俺が持つから」

言って、胸をどんと叩いた。

お目当ては休んでいたが、Mさん、大いにはしゃいでいた。そして別れぎわ

「遅くまで付き合ってくれてありがとう。それではまたな」

と、笑顔で手を上げ、帰っていった。

 

翌日、人事部から「設計第六部 設計課長 副参与 Mさん(四十二歳)本日の早朝、クモ幕下出血で死去」と、書かれた回覧が回ってきた。

 

時は五年経ち、母が「クモ幕下出血」に襲われた。

夕食を告げに自室でテレビを見ているだろう母に、廊下から声をかけた。だが、返答がない。不審に思い、襖を開けると洗面器を抱いて倒れていた。

大慌てで救急病院へ搬送し、夜遅く出た検査結果は「クモ幕下出血」だった。

六日後に手術。リハビリを終えて、一ヶ月経った頃、元気になって戻ってきた。

 

退院のさい、執刀医は、こんな話をした。

クモ膜下出血は経験したことのない頭痛で警鐘を鳴らす。ところが時間が経つと和らぐ。それにより、一過性と思い、普段どおりの生活を送る。しかし十日前後で、二度目が必ず来る。

経験のない頭痛があった時は、すぐに脳外科医の診察を受けるべき。そうすれば、死ぬことは極めて少ない。二度目だと、死亡率はぐんと上がって、六割以上。三度目では、もう、手遅れ。このことを、周囲の人に事あるごとに話して欲しい」

 

母の「クモ膜下出血」が先なら、Mさんは死んでいなかった。返す返すも残念だ。最後に別れた時の笑顔を思い出す。

 

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実るほど、頭のさがる稲穂かな

 

 飲み仲間でクラシックに詳しい友が

「チェロ奏者の水谷川(みやがわ)優子は、近衛秀麿の孫でね、世界的な人なんだ。CD貸すから、聴いてみな。演奏会に、きっと行きたくなるよ」と、話しました。

家へ帰ってヘッドホンを耳につけると、友の言うとおりでした。そこで、ネットで演奏会の日にちを調べ、今日(九月三十日)、聴きに行ってきました。

 

演奏曲は.バッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」ほか五曲で、どれも深い感銘を受けました。また、合い間の話しも印象に残りましたので、二つほど聞いてください。

では、幼年時代の愛らしい話から。

「四歳になった時、チェロを親から渡された。姉のバイオリンより大きかったので、とても嬉しかった」

二つ目は、ユーモアのある話です。

「所有するチェロを『チェロ男』と、呼んでいる。チェロ男は、百歳を越えているので我儘。湿気が多い日は機嫌が悪く、良い音を出さない。

演奏日には、チェロ男を負んぶして会場へ行く。今日来る時、新宿駅を降りて、次に乗る駅までの道に迷い、カタツムのような姿で、あっち、こっち、うろうろした。私を見た人、どう思ったかしら?」

 

世界的な奏者であり、さらに痩身なので、重くて大きなチェロは、付け人に持たせる。そうでないなら、自宅からハイヤーで乗りつける、料金は主催者の、つけで。

そう思っていたので、そうでないことを聞き、それなら普通の人と変わらない。それにより、親近感を持ちました。それがあることで倍化しました。

 

終演後のホールには、百人以上が一列に並んでいました。

「何処の会場でも見受けられる、自分のCDを売らんがためのサイン会だな。水谷川さんも同類項なんだ」

こいしは(私)、ちょっぴり、がっかりしました。ところが、CDを持たない人も並んでいます。そこで係員に問いました。

「CD、買わなくても、サイン貰えるの?」

「そうですよ。水谷川さんは、そんな人ではありませんよ」

 

 約三十分後、こいしの番になりました。

「プログラムでも良いですか?」こいし

「ええ、けっこうですよ」水谷川さん

「サイン、どうもありがとう」こいし

「どういたしまして」水谷川さん

「ずっと大切にします」こいし

「ありがとう、それでは握手」水谷川さん

「えっ・・・こんな私と?」こいし

「そうですよ」水谷川さん

 天にも昇るこの言葉と手の温もり。

生涯、手を洗わないないぞ! こいしは決めました。

 

水谷川さんの演奏を、毎日新聞は「心をノックするチェロ」また、東京新聞は「勇気づけ、包んでくれるような暖かい音色」と、評しました。

でもそれだけではありません。水谷川さんは、社会貢献の意識も高く、ライフワークとして少年院、ホスピス障がい者福祉施設を、もう十五年も訪問しているのです。

 

帰路、ふとこの諺を思い出しました。

「実るほど、頭のさがる稲穂かな」

  

 

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 さっそく部屋に飾りました

 

 

 

新しい家族が誕生しました

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中秋の名月

九月二十二日の、SUMIPINOさんのブログ

http://sumipino1.exblog.jp/24674373/ )

に、ススキ、コスモス、リンドウの生け花と、十五個の団子を四角錐に盛った盆、それを「食べたいなあ」と言いたげな、プードルの写真が載っていました。伝統を風雅に楽しむ、それはとても良いことです。

こいしは、そういったことなしに、ベランダから、薄い雲に遮られ、それでもぼんやり見える月を眺めていました。そうしていましたら、高校時代の漢文で教わった、白居易の詩が頭を過ぎりました。ですが、遠い昔のこと、もう忘れています。なのでネットに頼り、検索しました。

 

銀台 金闝 夕沈沈たり

独宿 相思うて 翰林に在り

三五夜中 新月の色

二千里外 故人の心

渚宮の東面には煙波冷かならん

浴殿の西頭には鐘漏深し

猶恐る 清光 同じくは見ざるを

 

いろいろな訳を参考にしまして、こいし(私)なりに解釈しました。

「赴任したばかりの自分、今晩は一人での宿直。十五夜を見ていると、赴任前に一緒の職場だった同僚が懐かしく想われる。二千里離れている同僚も、この月を眺めながら、私を想っているのだろうか?」

 

こいしも、遠く離れた地方都市に一人で赴任したことがあります。半月も経てば、その地にもう馴染み、夜の街へと繰り出しましたが、着任したては寂しくて、漢詩の登場人物の気持ちが、良く分かります。

「そんなに繊細なの、こいしは」ですって? 

失礼なこと、おっしゃらないで!

 

話が逸れました、戻します。

コンピュータを切り、再び月を見にベランダに出たところ、月はもっと厚い雲に遮られ、どこにあるかも分かりませんでした。

その時、ふと、アンデルセンの「絵のない絵本」(アンデルセン,H.C. 著/矢崎 源九郎 訳 新潮文庫 ISBN 978-4-10-205501-4)

を、思い出しました。

 

ですが内容、これもまた忘れています。なので、本箱から探し出し、読み返しました。とてもファンタスティックなので、大筋を記します。

 

貧しい画家が、故郷を離れて大都会の屋根裏部屋で寂しく暮らしています。ある夜、月が画家に話しかけました。それからは夜毎訪れ、自分(月)が見てきたことを話します。画家はその話を三十三巻にまとめました。その一つはこのような話です。

 

重い雲が空一面にたれこめ、月は見えない。画家はそれでも眺めていた。そうしているうち、月が聞かせてくれた、ノアの大洪水の時の話(注1)

イスラエルの人民が泣きぬれてバビロンの河辺に立った時の話(注2)

ロメオが露台の上によじ登った時の話(注3)

セント・ヘレナの島に幽閉されたナポレオンが荒寥たる岩頭に立って、胸に勇志を抱きつつ、大海原を眺めている時の話(注4)

などを思い出していた。

 

その頃、雲の隙間から、一すじの月の光が射した。だが、すぐまた黒い雲が光を遮った。その瞬間、画家は信じた、一すじの月の光は、僕に送ってくれた、やさしい晩の挨拶だったとの。

  

こいしが名月を見たのは、ほんの数分でした。ですがそれにより、現実を離れた気分になりました。こういった月見も良いものですね。

皆様は、どのような想いで、見ていられるのですか? お逢いできた日には、ぜひ、お聞かせ下さい。

  

(注1)旧約聖書に語られている伝説。人類の堕落に怒った神が起こした洪水。信仰心の篤い「ノア」だけは妻子と共に箱舟に乗って難を逃れた。

(注2)イスラエルは新バビロニアネブカドネザル二世によって滅ぼされ、住民の大部分が捕虜としてバビロンに移された。

(注3)シェークスピアの戯曲「ロメオとジュリエットの中の有名な場面」

(注4) ナポレオンは、セントヘレナの島に幽閉され、この地で病死。

 

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 絵のない絵本の表紙です

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三宝寺の伝説と今

東京で三番目に古い遊園地「としまえん」から、川沿いを西へ向かうと、四十分ほどで石神井公園へ出る。そこには二つの池があって、名称は「三宝寺池」と「石神井池」と言う。

三宝寺池には史実と異なるが、こんな言い伝えがある。

 「1477年(文明9年)の四月、石神井城主の豊島泰経は、江戸城主・大田道灌と、現在の中野区江古田付近で合戦した。だが代償多くして敗れ、城へ逃げ帰った。

しかし、道灌は追撃した。泰経は必死に防戦するも、落城色濃くなり、敵兵が見つめる中、三宝寺池へ身を投じた。

泰経の次女・見目麗しい照姫は悲嘆にくれ、泰経の後を追い、やはりこの池に身を投じた」

 

三宝池は、昭和三十年頃までは湧き水が多く、澄んでいたが、住宅化の波が押し寄せたことにより、水道(みずみち)が断たれ、今はその光景が見られない。

そうではあるが、水生植物の宝庫で、国指定の天然記念物「三宝寺池沼沢植物群落」があり、すぐ側には、ボランティアが毎週水曜日に手入れする「水辺観察園」がある。

また、池の周囲には絵を描く人、写真を撮る人、無駄口を叩きながら、将棋を指す人、さらに文庫本を読み耽る人たちが、ゆったりした時を過ごしている。

 

小さな道路を横切ると、三宝寺池からの水路をせき止めて作った石神井池になる。

休日には家族連れや、若いカップルがボートで遊び、水辺では釣り好きが、のんびり日長(ひなが)、竿を垂らしている。

南側には観覧席もあるステージがあり、多くに人が利用をしているとのこと。広場もあり、昔ここで中学仲間とハンカチ落としで遊んだことがある。女生徒に好かれない、こいし(私)には誰も落とさない、ちょっぴり悲しい記憶がよみがえる。

 

これからは宣伝になります。

この公園は都内の二十三区とは思えないほど緑多く、風光明媚で、歴史ある良き場所です。近くに来られたさいは、ぜひ、寄ってください。 きっと、誰かさんとまた来たくなりますよ。

 

ちなみに場所は、西武池袋線石神井公園駅」下車、徒歩十分ほどです。

 

 

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  三宝寺池です  水鳥が波紋を広げています

 

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  水辺観察園です

 

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 石神井池です 手前の樹は柳と桜 春はとても綺麗ですよ

 

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