こいしノート

エッセイ読むのも書くのも大好き人間です、小説も。 

死を知らずの言葉ですか

宗谷岬は北緯四十五度、沖縄の喜屋武岬は二十六度、であるなら寒暖の差があるはず。そうではあるが「暑さの果ても彼岸ぎり、寒さの果ても彼岸ぎり」との故事。

この頃になると、きまって、学生時代のサークル(器楽合奏部)仲間のS君が脳裏に浮かび、同時に二つの思い出も。

 

漱石の小説「こころ」には 「墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて『もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、地面は金色の落葉で埋まるようになります』と言った」と書かれている。

 

高校二年の時に読んだS君は、この文章にかぶれ、それが高じて大学生活を、舞台になった雑司が谷霊園のそばで過ごした。

卒業後は愛媛県松山へ戻り、家業の水産業を継いでいたが、秋になると霊園の黄葉が恋しくなり、毎年のように上京していた。

S君は上京を決めると

「○月○日、東京へ行くよ。無理してでも会ってよ。いつもの時間に、れいのスナックで待っている」と、電話してくる。

ところが今回は、雑司ヶ谷霊園で正午と言う。

時間きっちりに待ち合わせ場所へ行くとS君、吸っていたタバコを急いで携帯のケースに収め、その後、挨拶もそこそこに

「こい君(私の呼び名)、君の入る墓、ここのどこ? 死んだら、お参りに来るから、教えてよ」

場所を指定した理由が、これ? 疑問を持ったが、先々、そうなるかもしれないと思い、案内した。

 

思い出(一)

私の学科では簿記が必須なのだが、悲しいかな、私はそれをこなす脳みそがない。なので、三年生になっても及第点が取れていない。四年でもそうだと、十六社受けて、やっと内定した会社は、ぱあ。

結核を患い、無収入に近い父が内定を知った時「やっと、お前にかかる金、心配しなくてよくなった。やれやれだ」と口にした。

就職と父の安堵を思うと、どうしても及第点が欲しい。だが、自信がない。そこで窮余の一策、一年次で既に単位を取っていた、商業高校出のS君に替え玉を頼んだ。

すると少し間をおいて

「見つかったら、退学になるよな。家業を継ぐ俺は、卒業証書、いらないけど・・・・・・こい君はまずいよな・・・・・・見つからない、良い方法はないかな・・・・・・そうだ、こうしよう。試験中に机に置く学生証は俺のにして、もちろん名前も俺のにする。

試験が始まって三十分になったら、教室を出ても良いことになっているだろう。その時、大勢が事務員に答案を渡して出て行くよな。ざわついているその時、名前を書き替える。事務員、二人だけ、見つかりっこない」

少々、自信ありそうに言った。

良策ではあるが、まだ、なにか不安。その様子を察したのか

「万が一が怖かったら、俺が責任持って、教えるから、まともに受けたら?  なーに、簿記なんて、こつだよ。それが分かれば簡単だ。それと試験、毎年、同じような問題ばかりだから、過去問(題)を、がっちりやれば、及第点、間違いなし」

三日間、教わって、無事「蛍の光」を歌えた。

 

思い出(二)

替え玉を依頼した半年前の夏、サークルを打ち上げた翌々日、S君の家に立ち寄った。家人に歓迎された翌朝は、もう陽が燦々。そこで海水浴を提案した。

「グッドアイディア」S君は喜び、中学生時代の友で商船大生「ろくさん」も、ついでにと誘った。

小船で十分ほどの浜には、飛び込み用の脚立があった。久し振りだと張り切った私、板の先端につま先で立った、その時

「おい、なあ、ろく(ろくさん)、あっちから来るの、中学の時、一緒だった、波子じゃないか、ほら、神戸の医大に行った」

S君が、五人の先頭を指差し、言った。

「あっ、そうだ。その後ろは砂江みたいだ。ちょっと待てよ、なぎさと凪子もいる!」 その日の夜、星降る下で合流した四人と、ビールとバーベキューを楽しんだ。その後、フォークダンス。(恥ずかしいがり屋で踊れぬ私、孤独)

踊り疲れると中学時代の恋談義が始まった。(違う中学の私、またまた孤独)

 

数年後、S君と砂江、ろくさんと波子が華燭の宴。その切っ掛けは浜での再会。と言うことは、遊泳を提案した私が、恋のキューピットだ。誰もが、イメージするキューピットとは、似ても似つかぬ容貌の私ではあるが。

 

我が家の墓の在りかを知った半年後、S君の夫人、砂江さんから沈痛の電話。

「主人が、今朝の六時に亡くなりました。大腸がんが肺に転移しまして・・・・・・」

 

「こいしが死んだら、お参りに来る」と言ったS君、還暦を待たずに逝った。

己の死を知っていて? 知らずして?

 

(2〇14年9月 こいしノートより)

 

 

f:id:sebuchi:20160916205911j:plain

 (見上げる銀杏 まだ黄葉していません)

 

f:id:sebuchi:20160916205827j:plain

(他の樹々も、紅葉はまだまだです)

 

 

 

f:id:sebuchi:20160706223135p:plain

クリック お願いします

 
にほんブログ村

はな子の お別れ会

私は、九月三日に催された「アジアゾウはな子のお別れ会」に参列し、関係者の思いやりと優しさに心を打たれました。

最初のは、市長が挨拶した中で、はな子を「はな子さん」と、呼んだことにです。

 

園長は「特設展示 はな子の69年」の挨拶文に、こう書いている。

「平成二十八年五月二十六日、アジア象の、はな子が死亡しました。こう書くと間違った表現のようで『死亡』とは人にたいして使う言葉であり新聞などのマスメディアでは動物は『死んだ』が使われるそうです。

しかし私は敢えて死亡という言葉を使います。なぜならはな子は紛れもなく『人』と生き、『人』が運命を変えてきた69年の『人生』だったからです(以下略)」

市長も、同じ思いだったのでしょう。

 

奥方を呼び捨てにする亭主関白殿、市長を見習い「さん」を、つけたらいかが? 

「馬鹿、言うな! 男がすたる! こけんにかかわる!」

まあ、そうおっしゃらず、言ってみたら? 

奥方、たちまち頬がピンクになって、晩酌の一合が二合、三合に。そして「今日は私も飲みたいわ、ねえ、注いで」と、しなだれかかるかも。

 

つい、おせっかいを言いました、話を戻します。

市長の優しさは、飾り気なく歌った「ぞうさん」の替え歌です。

「はな子さん はな子さん ほんとうにありがとう どうぞ ゆっくり おやすみなさい」

(元歌、まど・みちお作詞、団伊玖磨作曲)

 

食事の担当員の話にも、思いやりが、いっぱいだった。配布された冊子に、六十九歳を迎えた頃の、はな子の食生活(一日分)が、載っている。

「お結びにした麦ご飯(6kg) バナナ(18kg)リンゴ(2kg) ニンジン(2.5~3kg) 小松菜(1.5~3kg) キャベツ芯を抜き、6~8等分に切る(10kg) 黒糖湯(36ℓ) 黒糖(2kg) 食パン(10斤)」

 

季節ごとの、果物と野菜も載っている。

「スイカは皮を取り除き、食べやすいサイズに切って(一日一個) ナシは乱切りにして(1日2kg) カキは8等分に切り(1日1kg) モモは缶詰で、シロップが嫌いなので水洗いし、水を切り(1日3~4缶)」

 

この他、自然文化園で採った、ドクダミヤブガラシハコベハナダイコンカラスノエンドウなどなど、合わせて一日5kg。(※効果は文末に書きました)

毎日毎日の尽力、仕事とはいえ、思いやりと愛情なくしてはできないと思う。

 

はな子の像が現実になった。つい最近の新聞に、こんな文が載っていた。

「死には二つがあって、一つは生命が絶たれた時、もう一つはその事実を知る人の皆が死んだ時」

そうであるなら、はな子の像を見る人が存在するかぎり、はな子は生き続ける。戦争で、日本が破壊されなければの話しだが。

 

はな子の遺体は、国立博物館に寄贈され、学術研究に役立てられるという。死してなお世に貢献する、はな子 ありがとう、そして安らかに。

 

(※)配布された冊子より

「ヤブカラシの根は「烏歛苺(うれんぼ)、ドクダミの茎や葉は「十薬」という生薬になり、烏歛苺には利尿、解毒、鎮痛などの効果があり、十薬を煎じた液には、利尿作用、動脈硬化の予防作用あるということです。

年老いた、はな子にとっては、どちらも体に良さそうです。まるではな子が、その効果を知っているかのようですね」

 

 

f:id:sebuchi:20160909135036j:plain

 お別れ会のポスター

 

f:id:sebuchi:20160909135453j:plain

  献花の列

 

f:id:sebuchi:20160909133230j:plain

  無邪気に遊ぶ はな子(配布冊子より)

 

f:id:sebuchi:20160909133137j:plain

 写真集(配布冊子より)

 

f:id:sebuchi:20160909133608j:plain

 お別れ会のお土産

  

f:id:sebuchi:20160706223135p:plain

 

 クリック お願いします


にほんブログ村

百合(難しい話と恥ずかしい話)

兄は、日本ブログ村の「季節の花」街区に居を構えて、もう十年になる。半年前に訪問した時、兄のブログ「道草の時間」に目を通した。

http://michikusanojikan.at.webry.info/201607/article_3.html

 

「一昨年、カサブランカの球根2個を一つの鉢に植えました。それが昨年の夏見事な花を咲かせました。今年は、昨年から残っていた球根から、昨年と同様の太い茎が2本立ち上がりました。それに加えて、8本の細い茎が斜めに生えてきました。そして、成長するにつれて、ほとんどが横向きになりました。  2本の太い茎には昨年と同様、それぞれ8つずつの豪奢な花が付きました。一方、細い茎の方は、8本のうち2本の先端に1つづつ花がつき、花の大きさもかたちも太い茎についた花と同様でした。  太い茎の葉も、細い茎の葉も、同じかたちでしたが、葉のつき方に違いがありました。葉序は太い茎も細い茎も互生ですが、太い茎の葉序では、葉はらせん状に並び、細い茎の葉は二列互生の葉序になっていました。

細い茎は横向きに成長したため、光合成を効率よく行うべく、葉の上面に十分な光が当たるように、本来はらせん花序であるべきものを、茎の成長点(茎の先端の分裂組織)が、茎が横向きであることを感知して、二列互生に変えたものと推測されます。

:葉序には基本的に互生、対生、輪生の三型があり、遺伝的に決められた性質です。上記の例は、互生花序の中の変異で、遺伝的なものでなく、後天的なものと考えられます」

 百合の茎に二列互生があるとは、びっくりだった。

 

修験道場で知られる大山の麓に、自然林があって、そこで開かれる月一回の動植物の観察会(ミニ観)へ、ここ八年通っている。

兄を訪問した二ヵ月後、ミニ観のコースから少し離れた場所に数十本の山百合が、みごとに咲いていた。それを眺め終えた時、兄が話した「二列互生」を思い出して検証し、その結果、確かだった。

 

どんな質問にも、分かりやすく教えてくれる、ミニ観の代表が、百合の群生を眺めている時の私を、どう見たのか、翌月、短冊を差し出した。そこにはこう書いてあった。

 

「道の辺の草深百合の花咲(ゑみ)に 咲(ゑ)ましからに妻といふべしや」

 

和歌には全く疎い私、意味を知ろうと帰路、図書館に寄り、若い女性の学芸員に解釈を聞いた。

すると「少々、お待ちになって」と言い残し、数分後「新日本古典文学大系万葉集二巻(岩波書店)」を、手にして来た。そして栞を挟んだページを開け「どうぞご覧になって」と、差し出した。そこには原文と和歌(前述)、そして注釈が載っていた。

(原文)

「道邊之 草深由利乃 花咲尓 咲之柄二 妻常可云也」

(注釈)

「道ばたの草深い中に咲く百合の花のように、にっこりお笑いになっただけで、妻と言ってよいものでしょうか」

 

おおよそは理解できるももの「妻と言ってよいものでしょうか」が、まだすっきりしない。そこで再び問うた。すると少し自信なさそうに

「・・・私なりの解釈ですけれど・・・・・・ちょっと微笑んだのに、妻になって欲しいだなんて、勘違いなさらないで・・・かしら」

と言い、その後、悪戯っぽい表情に変えて

奈良時代の男性も、平成時代の男性も、あまり変わりませんね。おたくはどうですか?」

 問われた私、一瞬「ドキッ!」

 

 心底尊敬するミニ観の代表、どんなつもりでくれたのかなぁ? 

 

f:id:sebuchi:20160902173849j:plain

  太い茎に咲いた花

 

f:id:sebuchi:20160902174249j:plain

 太い茎の葉序(らせん状)

 

f:id:sebuchi:20160902174356j:plain

 細い茎に咲いた花

 

f:id:sebuchi:20160902174553j:plain

 細い茎の葉序(二列互生)

 

f:id:sebuchi:20160824163609j:plain

 代表から いただいた短冊

   

アジアゾウ はな子のお別れ会に行ってきました。次回は、そのことを書きたいと思っています。

どうぞ、遊びに来てください。

  

クリック お願いします 


にほんブログ村

アジアゾウ はな子 ありがとう

 昨年の晩秋、象のはな子が弱っていると聞き、年が年なので、ひょっとすると? 不安が過ぎり、井の頭自然文化園にある動物園へ、会いに行った。するとそのとおり、後ろを向いたきりで、左右に力なく鼻を振るばかり。

母親の胸から、じっと見ていた、くりくりした目が可愛い女児が「ママ、ぞうさんの、おかお、見たい」と、振り向いた。

 

半年経った今年の五月、はな子が死んだとの報道。それから二ヵ月後「アジアゾウはな子の六十九年」と、題した展示会が催された。それを知り、さっそく出向いた。

 

 展示室には、園長の挨拶文があった。

「平成二十八年五月二十六日、アジア象の、はな子が死亡しました。こう書くと間違った表現のようで『死亡』とは人にたいして使う言葉であり新聞などのマスメディアでは動物は『死んだ』が使われるそうです。

しかし私は敢えて死亡という言葉を使います。なぜならはな子は紛れもなく『人』と生き、『人』が運命を変えてきた69年の『人生』だったからです(以下略)」

この文言に違和感を持ったが、深くたずさわった園長の本心だろう。ならば理解すべき、それを念頭に見学することにした。

 

展示物の始まりは、神戸港から、はな子が貨物列車とトラックに乗せられ、上野動物園へ向かう途中の御徒町付近での写真だった。

 

次のは「仲良くしてね」そう言いたげな目で、同程度の背丈の小学生から、鼻で器用に果物を受ける、はな子の写真。

 

次は説明文、最後の二行で救われたが、読むのが辛い。

「1956年には、酒に酔った男性が夜、ぞう舎に忍び込み、はな子に踏まれて亡くなり、1960年には飼育係が象舎で、はな子に踏まれ、殉職するという、いたましい事故がおきてしまいました。

 二度目の事故のあと、はな子は危険な象という判断で鎖につながれたままで飼われ、象も人もお互いに信頼できなくなってしまいましたが新たに担当した飼育係により、次第に以前のような、はな子に戻っていきました」

 

 私は、事件の背景は関係者の都合で、はな子を井の頭動物園に移し、それにより、一頭きりになった。それが原因でストレスがたまり、気性が荒くなった結果、そう推測している、今もって。

 

次からは体調の悪化で、おおよそこのように書かれていた。

「1982年頃から、やせて元気がなくなり、消化不良が便ぴをおこすようになった。そのさいは、ホースをお尻に入れて浣腸した。

1983年の12月16日、左上の歯、九日後、右上の歯が抜け落ちた。これにより、特別食となる」

便秘の治療もそうだと思うが、日に何十キロの食材を、食べやすいように調理する工夫とその労力、さぞ大変だっただろう。

 

他にも考えさせられる、色々な展示物があったが、最後のコーナーは、はな子の遊具だった。

はな子がつぶしたタイヤや、首にまいたり、空に放り投げたりしたホースが置いてある。映像もあって、元気な頃を思い出す。

使い古したホーキもあった。担当員の掃除を手伝おうと、鼻でそのホーキ持つ写真も掛けてある。そこには「さすがに掃除は出来なかった」とのコメントが。何ともほほ笑ましい。

 

見終わると、園長の挨拶文に違和感がもうない、私になっていた。

 

九月三日には、お別れ会があるという。

 

はな子の像を建てる話もあるという。

 

f:id:sebuchi:20160824161421j:plain

 (展示会のポスター)

f:id:sebuchi:20160824161213j:plain

 (上野動物園へ向かう途中、御徒町あたり)

f:id:sebuchi:20160824161333j:plain

(ホースで遊んでいる)

f:id:sebuchi:20160819164722j:plain

(お別れ会のポスター)

 

 

f:id:sebuchi:20160706223135p:plain

 

 

クリック お願いします


にほんブログ村

たがいに惚れていたけれど

 

 

たがいに惚れていたけれど

 

四年ほど前に「男はつらいよ・寅次郎の旅路」の上映会と、竹下景子さんが「寅さん」をトークする招待券を、知人から貰った。

当日は朝から大雪が舞い、夕刻まで続くとの天気予報。銀幕スターは得てして我がままと聞く。この悪天候では、何かにこじつけ、竹下さん、来ないのではと案じたが、スクリーンで見る美しさと声、そのままに「風に吹かれ、気ままに全国に行く潔さ」と、寅さんの魅力を、にこやかに語ってくれた。

 

「寅次郎心の旅路」は何度か見たが、兵馬(※寅さんと一緒に旅する人)が、オーストリアで恋した娘の名がテレーゼということに、初めて気づいた。

ドイツの詩人、ハイネの詩集「歌の本」の下巻三十三番に「たがいに惚れて」というのがある。

 

「たがいに惚れていたけれど

うちあけようとしなかった

かえってつれないそぶりして

恋にいのちをちぢめてた

しまいに会えなくなっちまい

ただ夢にだけ出会ってた

とっくにめいめい死んじゃって

それさえてんで知らなんだ」

 

主人公(ハイネ)は従妹のアマーリェに恋したが、失恋。するとすぐに、アマーリエの妹、テレーゼに心を寄せる。しかしこれも失恋。この時の心境が、この詩を創作させたのだろう。

 

私は二十一歳の時、北海道紋別市から上京し、観光事業の専門学校に通う、老舗旅館の一人娘と、週二回の英会話学校で知り合った。

彼女はハイネの詩が大好きで、貴方も好きになって欲しいと、喫茶店の片隅で、また季節の花が美しく咲く公園で「歌の本」の抒情詩を心を込めて読み、その後、背景や人間関係を、夢見る乙女のように語った。

そのような日々が続いていた、ある日、彼女の母親が急逝した。女将のいない旅館は成り立たないのか、葬儀で帰ったきり、戻ってこなかった。

 

寅さんを楽しんで家路に向かうさい、テレーゼの名前から「たがいに惚れて」を思い出し、そして夢見る乙女を思い出した。

流氷寄せる街で、どんな暮らしをしているだろう。一目でも良い、逢いたいものだ。

 

f:id:sebuchi:20160706223135p:plain

 

「あんポンたん」は、これにて終了します。

 次回は「ぞうのはな子」の予定です。

 

クリック お願いします

 


にほんブログ村

「あんポンたん」の梗概

 

猛暑が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。お元気なら、なによりです。

 

今日は前回に、お約束しました、ユーモア小説「あんポンたん」の梗概です。

第一部のエッセイは十二編からなり、十七人が登場します。そのうちの十一人は亡くなっています。

第二部になりますと小説に変わり、その人たちが極楽浄土にある、蓮華の花咲く池のほとりで、間もなく来るだろう、私を迎える同窓会を開きます。

西方十万億土の彼方まで旅し、疲れきった私は、一休みしてから参加することにして、車座になっている出席者の様子を見ています。

 

前置きが長くなりましたが、それでは始めます。なお……の間の文言は、省略箇所や状況の説明です。

 

左心房と左心室の間に僧帽弁、右心室と右心房の間には三尖弁(さんせんべん)がある。私はこの二つが閉鎖不全なので、ここ十四年、薬で進行を抑えていた。

しかしもう限界ということで、主治医が

「体力があるうちに手術しませんか、手術危険率は二%前後です。家の方と相談して下さい」と言う。

生き死には私ごと、考えることなく「お願いします」と、頭を下げた。

 

無影灯の照射が眩しい。「麻酔をかけますよ」医師の低い声。

「お願いします」

私は目を瞑り、麻酔が醒めなければ西方へ行く、そこには誰がいる? ふと思った。が、意識はそこまでだった。

 

……亡くなった十一人が同窓会の席上で、私の思い出を語るのですが、梗概なので、前々回のエッセイ「さしみの妻はいや」に登場する、長崎壱岐夫のだけとします……

 

「私は肝臓を壊して十五年前にここの住民になりました、長崎壱岐夫、五十一歳です。どうぞよろしく。

モッチン(私のニックネーム)と、大学三年の春、天城山を縦走しました。

万二郎岳から万三郎岳へ向かうと、伊豆の山々や大島、利島が美しい岩場に出ます。その風景に見とれていましたら、後から来た女性二人が、微笑みの会釈をしてくれました。

二人は大手銀行の静岡支店に勤めていて、少し色黒でぽっちゃりしているのは駿河浜子さん。やはりぽっちゃりしているのですが、透き通るほどの白い肌の女性は、藤枝静江さんで、彼女は夜間大学の学生でもありました。

私たちは偶然の出会いを大切にしまして、東西に別れる三島駅まで同行しました。

 

四日後、浜子さんから、手紙が来ました。

貴方が好きになった。再会場所の大瀬海岸の夜、ずっと二人でいたい。静江とモッチンがペアになってくれれば、望みが叶いますが、残念ながら、静江は面食いなので、モッチンには、なびかないでしょう。どうすれば二人になれるかを考えてください。

このような内容でした。

 

二日後、静江さんから

「私を好きになってください。そしてそれを愛に、更に恋に発展させてください」

と、書かれた手紙が来ました。

私も、静江さんが好きでしたので、天にも昇る心地になりました。

二人の手紙には、再会したいと書いてありました。なので、モッチンを誘いました。そうしましたら「一人で行けよ」と、不機嫌な顔で、つっけんどんに言うのです。友達がいのない男でしょう。

大瀬崎海岸での静江さん、ビキニの水着姿でした。縦走するさい、夜間大学に通うのは、弁護士になりたいからだと、言いました。

美人でグラマーで、向学心に燃える静江さんが、更に好きになりました。

こうなりますと、浜子さんが厄介です。なので、大瀬崎海岸で再会した時、モッチンを褒めまくり、交際を薦めました。そうしましたら、浜子さん、目を三角にして『見くびらないで!』でした。この話、モッチンにはオフレコで、お願いします」

 

……この言葉に皆が揶揄します……

 

「(みんな)嫌だ、嫌だ、オフレコは嫌だ。

喋りたい、喋りたい。

静江とは、どうなった、どうなった?」

「(壱岐夫)振りました」

「(みんな)嘘だ嘘だ。振られた振られた」

 

……冗談の掛け合いの後、壱岐夫が次の人を指名します……

 

次は静江さんより、もっともっと麗しい北見さん、お願いします。まさか、モッチンに恋した話ではないでしょうね。

「(みんな)ない、ない)」

 ごめんなさい、それです。

「(みんな) ええっ、ええっ) 」

 

……-無二の親友と思っていた壱岐夫に裏切られ、怒った私、声高に叫びます……。

 

「よくもよくも、ばらしたな。おまけにオフレコだなんて。俺もばらすぞ、静江に振られた時の醜態を。それと二人の手紙、自慢そうに見せただろ。見たら、行くわけない!」

 

……ところが不思議なことに、声が届きません……

 

……壱岐夫に指名された北見さんも、私の悪口です。続く九人もそうです。私は、いたたまれなくなり、残りの二人の話を聞く前に、閻魔大王に地獄行きを頼みます……

 

「地獄だと? 歓迎されなかっただと? どれもう一度、閻魔帳を見てみよう。ありゃりゃ、一頁,飛ばしてるぞ。

ヴェスペレを聴きに行った時、道に迷って女高生に案内してもらった、その際、お前は女高生を見習って、誰にも親切にすると、心に誓った。だが一度としてなされてない。

大雪が舞う夕方ちかく、市役所から駅まで女性に車で送ってもらった。その御仁が『困っている人を見ましたら、できる範囲で手を差し伸べて下さい、そういった輪が広がって欲しいの私』と、お前に頼んだ。

(前回のエッセイ「わかい日にであっていたら」)

だがこれも一度としてなされてない。この頁を飛ばしたのは我が落ち度。宜しい、叶える。ただし、元の場所にだ。

これから死ぬまで善意を施せ。さすれば、次に来た時、歓迎される。さあ、後ろを向け、手を伸ばせ、前屈みになって尻(ケツ)を突き出せ! そら、蹴っ飛ばすぞ、えーい」

 

……私は閻魔大王から蹴飛ばされ、麻酔から醒めます……

 

「あら、お目覚めね。私、主治医以外の担当(看護師)の榊マリコ、よろしくね。

患者さん、寝てた、二十六時間、面白いことたくさん言ってたわ。閻魔さま、地獄へ行かせてだなんて。

何人もの、女の人の名前、呼んでたわ。どういった関係だったの。誰にも言わないから、教えて。おほほほほ」

 

 ……極楽浄土で私を語る、残りの一人は小学校の恩師、もう一人は中学生の時に知った、違う中学の女生徒。恩師は私に同情し、女生徒は、逢いたい旨を切々と口にした。

同情した全員、声を揃えて私を呼ぶ。

「早く来い来い、あんポンたん」

「早く来い来い、あんポンたん」

女生徒が続いて

「早く来て来て、あんポンたん」

「早く来て来て、あんポンたん」 

 

次回のエッセイは、壱岐夫が話しました

「静江より、もっともっと美しい北見さんに、お願いします。まさか、モッチンに、恋した話じゃないでしょうね」

彼女の思い出を書いた、エッセイです。

 

 

 

f:id:sebuchi:20160706223135p:plain

クリック お願いします

 

 


にほんブログ村

わかい日にであっていたら

 

三年前、モーツアルトのヴェスぺレ(宗教音楽)を聴きに、JRの池袋駅から、目白台にある演奏会場の教会まで、いつもの散歩道に変え、歩きました。今日はその話で、これも「あんポンたん」の中の一編です。

 

わかい日にであっていたら

 

雑踏の駅から、しばらく行くと護国寺が目に入った。古都の寺社は良く行ったが、この寺はまだない、灯台下暗しである。開演にはまだ間があるので、寄ることにした。

山門をくぐると重要文化財に指定された本堂がどっしりと構えている。説明の立て札を二度ほど読んだ後、じっくり時間を費やして鑑賞し、あたりの樹々や草花も見ていた。そうしていた時、バギーを押す、ふくよかなお婆さんが

「ふるさと(豊島区の夕焼けチャイム)が鳴ったよ。さあもう帰ろうね」

と寝入る、女の児に話しかけた。

「えっ、もうそんな時刻?」

驚いて時計を見ると、開演まで一時間を切っていた。焦った私は、ネットで出した地図を無視し、三角形の底辺だろう路地を闇雲に進んだ。その結果、自分の今いる場所すら、分からなくなっていた。

少なくとも方角だけは知ろうと、少し大きい通りへ出て、あたりの風景を眺めた。すると遠くに教会の鐘塔があった。

「しめた、あそこだ」安心した私は、鼻歌まじりで到着した。ところが、そこには人っ子一人いなかった。演奏会場の教会ではなかったのである。

その時、地獄で仏、犬を散歩させるお爺さんが、向かって来た。さっそく聞くと

「それなら、三つ目の信号の手前に女子大があるから、そこを右に少し行った所だよ」

丁重な礼を言い、急行すると、何とそこは閑静な住宅街だった。

もうろく爺か、それともいじわる爺なのか、どちらにしても、腸が煮えくり返った。

あたりに人がいないので、最後の手段、主催者に電話で聞くことにした。そこで、入場券を財布から取り出して見ると「東京メトロ有楽町線護国寺駅徒歩五分」と、ただそれだけだった。

途方に暮れていると、女高生が遠くから向かって来る。そこで、不審に思われないように、それでも早足で歩みより、神に祈る気持ちで聞いてみた。すると

「帰り道ですから、ご一緒しましょう」と、爽やかな笑みで言う。

帰り道は嘘だと思った。案内した後、暴漢や痴漢に襲われたり、不慮の事故に巻き込まれたら、申し訳ない。そこで指示のみを求めた。だが聞きわけのない、お嬢さんだった。

「学校帰りですか?」

「ええ」

「どちらの学校なの?」

「池ヶ岡女子です」

「進学校で有名な、池ヶ岡?」

「皆はそう言いますけれど、私、そう言われるの、とても嫌よ。おじさんはどこの学校なの?」

「僕? 僕はね、私立不良学園高校」

「まあ、面白いおじさまだこと。不良学園高校なんて、聞いたことないわ」

言ってすぐ「おほほ」と、小さく笑った。

 思いも寄らない、お嬢さんの親切で、やっと到着した。感謝を口にすると

「帰り、心配だなあ。そうだ、皆について行って。そうすれば護国寺駅までは行けるわ。そうしてね。そうするのよ、絶対によ」

病弱な弟を諭すかのように言うと、くるぶしを返し、来た道を早足で戻って行った。帰り道はやはり嘘だった。

 

その十年ほど前、同じような親切を受けた。日野市役所へ指名参加の申請に行ったさいである。受理されるには細かい審査があり、相応の時間が掛かる。また最終日だったので申請人が多く、入った時はどんよりしていた空が、出る時は吹雪いていた。

次の八王子市も最終日、携帯傘を手に、門を出た。するとクラクションの音。振り向くと、若い女性が近寄ってきて

「駅に行かれるのでしたら、お送りしますよ。通り道ですから」

雪を遮るように目を細めて言った。

今の時世にこの親切は考えられない。素人女を装った、美人局(つつもたせ)? 躊躇していると「遠慮なさらず、さあどうぞ、どうぞ」

私の背中を押した。

それにより濡れずに、そして早く着いた。その謝礼を申し出ると

「結構です、その代わり、困っている人を見ましたら、できる範囲で手を差し伸べて下さい。そういった輪が広がって欲しいの、私」

 

親切の嘘をついた女高生、親切の輪を広げたい女性、若い日に出会っていたら、忘れられない人になっていただろう。

 

 

小説「あんポンたん」の内容が知りたいとのコメントが、数人の方から入りましたので、次回はその概略を書きます。

「なーんだ、つまんないの」と、おっしゃられるのを覚悟で。

 

これからも、猛暑続きそうです。お体にはくれぐれも、お気をつけください。

 

f:id:sebuchi:20160706223135p:plain

 

 

 クリック お願いします

 


にほんブログ村