こいしノート

エッセイ読むのも書くのも大好き人間です、小説も。 

実るほど、頭のさがる稲穂かな

 

 飲み仲間でクラシックに詳しい友が

「チェロ奏者の水谷川(みやがわ)優子は、近衛秀麿の孫でね、世界的な人なんだ。CD貸すから、聴いてみな。演奏会に、きっと行きたくなるよ」と、話しました。

家へ帰ってヘッドホンを耳につけると、友の言うとおりでした。そこで、ネットで演奏会の日にちを調べ、今日(九月三十日)、聴きに行ってきました。

 

演奏曲は.バッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」ほか五曲で、どれも深い感銘を受けました。また、合い間の話しも印象に残りましたので、二つほど聞いてください。

では、幼年時代の愛らしい話から。

「四歳になった時、チェロを親から渡された。姉のバイオリンより大きかったので、とても嬉しかった」

二つ目は、ユーモアのある話です。

「所有するチェロを『チェロ男』と、呼んでいる。チェロ男は、百歳を越えているので我儘。湿気が多い日は機嫌が悪く、良い音を出さない。

演奏日には、チェロ男を負んぶして会場へ行く。今日来る時、新宿駅を降りて、次に乗る駅までの道に迷い、カタツムのような姿で、あっち、こっち、うろうろした。私を見た人、どう思ったかしら?」

 

世界的な奏者であり、さらに痩身なので、重くて大きなチェロは、付け人に持たせる。そうでないなら、自宅からハイヤーで乗りつける、料金は主催者の、つけで。

そう思っていたので、そうでないことを聞き、それなら普通の人と変わらない。それにより、親近感を持ちました。それがあることで倍化しました。

 

終演後のホールには、百人以上が一列に並んでいました。

「何処の会場でも見受けられる、自分のCDを売らんがためのサイン会だな。水谷川さんも同類項なんだ」

こいしは(私)、ちょっぴり、がっかりしました。ところが、CDを持たない人も並んでいます。そこで係員に問いました。

「CD、買わなくても、サイン貰えるの?」

「そうですよ。水谷川さんは、そんな人ではありませんよ」

 

 約三十分後、こいしの番になりました。

「プログラムでも良いですか?」こいし

「ええ、けっこうですよ」水谷川さん

「サイン、どうもありがとう」こいし

「どういたしまして」水谷川さん

「ずっと大切にします」こいし

「ありがとう、それでは握手」水谷川さん

「えっ・・・こんな私と?」こいし

「そうですよ」水谷川さん

 天にも昇るこの言葉と手の温もり。

生涯、手を洗わないないぞ! こいしは決めました。

 

水谷川さんの演奏を、毎日新聞は「心をノックするチェロ」また、東京新聞は「勇気づけ、包んでくれるような暖かい音色」と、評しました。

でもそれだけではありません。水谷川さんは、社会貢献の意識も高く、ライフワークとして少年院、ホスピス障がい者福祉施設を、もう十五年も訪問しているのです。

 

帰路、ふとこの諺を思い出しました。

「実るほど、頭のさがる稲穂かな」

  

 

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 さっそく部屋に飾りました

 

 

 

新しい家族が誕生しました

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中秋の名月

九月二十二日の、SUMIPINOさんのブログ

http://sumipino1.exblog.jp/24674373/ )

に、ススキ、コスモス、リンドウの生け花と、十五個の団子を四角錐に盛った盆、それを「食べたいなあ」と言いたげな、プードルの写真が載っていました。伝統を風雅に楽しむ、それはとても良いことです。

こいしは、そういったことなしに、ベランダから、薄い雲に遮られ、それでもぼんやり見える月を眺めていました。そうしていましたら、高校時代の漢文で教わった、白居易の詩が頭を過ぎりました。ですが、遠い昔のこと、もう忘れています。なのでネットに頼り、検索しました。

 

銀台 金闝 夕沈沈たり

独宿 相思うて 翰林に在り

三五夜中 新月の色

二千里外 故人の心

渚宮の東面には煙波冷かならん

浴殿の西頭には鐘漏深し

猶恐る 清光 同じくは見ざるを

 

いろいろな訳を参考にしまして、こいし(私)なりに解釈しました。

「赴任したばかりの自分、今晩は一人での宿直。十五夜を見ていると、赴任前に一緒の職場だった同僚が懐かしく想われる。二千里離れている同僚も、この月を眺めながら、私を想っているのだろうか?」

 

こいしも、遠く離れた地方都市に一人で赴任したことがあります。半月も経てば、その地にもう馴染み、夜の街へと繰り出しましたが、着任したては寂しくて、漢詩の登場人物の気持ちが、良く分かります。

「そんなに繊細なの、こいしは」ですって? 

失礼なこと、おっしゃらないで!

 

話が逸れました、戻します。

コンピュータを切り、再び月を見にベランダに出たところ、月はもっと厚い雲に遮られ、どこにあるかも分かりませんでした。

その時、ふと、アンデルセンの「絵のない絵本」(アンデルセン,H.C. 著/矢崎 源九郎 訳 新潮文庫 ISBN 978-4-10-205501-4)

を、思い出しました。

 

ですが内容、これもまた忘れています。なので、本箱から探し出し、読み返しました。とてもファンタスティックなので、大筋を記します。

 

貧しい画家が、故郷を離れて大都会の屋根裏部屋で寂しく暮らしています。ある夜、月が画家に話しかけました。それからは夜毎訪れ、自分(月)が見てきたことを話します。画家はその話を三十三巻にまとめました。その一つはこのような話です。

 

重い雲が空一面にたれこめ、月は見えない。画家はそれでも眺めていた。そうしているうち、月が聞かせてくれた、ノアの大洪水の時の話(注1)

イスラエルの人民が泣きぬれてバビロンの河辺に立った時の話(注2)

ロメオが露台の上によじ登った時の話(注3)

セント・ヘレナの島に幽閉されたナポレオンが荒寥たる岩頭に立って、胸に勇志を抱きつつ、大海原を眺めている時の話(注4)

などを思い出していた。

 

その頃、雲の隙間から、一すじの月の光が射した。だが、すぐまた黒い雲が光を遮った。その瞬間、画家は信じた、一すじの月の光は、僕に送ってくれた、やさしい晩の挨拶だったとの。

  

こいしが名月を見たのは、ほんの数分でした。ですがそれにより、現実を離れた気分になりました。こういった月見も良いものですね。

皆様は、どのような想いで、見ていられるのですか? お逢いできた日には、ぜひ、お聞かせ下さい。

  

(注1)旧約聖書に語られている伝説。人類の堕落に怒った神が起こした洪水。信仰心の篤い「ノア」だけは妻子と共に箱舟に乗って難を逃れた。

(注2)イスラエルは新バビロニアネブカドネザル二世によって滅ぼされ、住民の大部分が捕虜としてバビロンに移された。

(注3)シェークスピアの戯曲「ロメオとジュリエットの中の有名な場面」

(注4) ナポレオンは、セントヘレナの島に幽閉され、この地で病死。

 

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 絵のない絵本の表紙です

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三宝寺の伝説と今

東京で三番目に古い遊園地「としまえん」から、川沿いを西へ向かうと、四十分ほどで石神井公園へ出る。そこには二つの池があって、名称は「三宝寺池」と「石神井池」と言う。

三宝寺池には史実と異なるが、こんな言い伝えがある。

 「1477年(文明9年)の四月、石神井城主の豊島泰経は、江戸城主・大田道灌と、現在の中野区江古田付近で合戦した。だが代償多くして敗れ、城へ逃げ帰った。

しかし、道灌は追撃した。泰経は必死に防戦するも、落城色濃くなり、敵兵が見つめる中、三宝寺池へ身を投じた。

泰経の次女・見目麗しい照姫は悲嘆にくれ、泰経の後を追い、やはりこの池に身を投じた」

 

三宝池は、昭和三十年頃までは湧き水が多く、澄んでいたが、住宅化の波が押し寄せたことにより、水道(みずみち)が断たれ、今はその光景が見られない。

そうではあるが、水生植物の宝庫で、国指定の天然記念物「三宝寺池沼沢植物群落」があり、すぐ側には、ボランティアが毎週水曜日に手入れする「水辺観察園」がある。

また、池の周囲には絵を描く人、写真を撮る人、無駄口を叩きながら、将棋を指す人、さらに文庫本を読み耽る人たちが、ゆったりした時を過ごしている。

 

小さな道路を横切ると、三宝寺池からの水路をせき止めて作った石神井池になる。

休日には家族連れや、若いカップルがボートで遊び、水辺では釣り好きが、のんびり日長(ひなが)、竿を垂らしている。

南側には観覧席もあるステージがあり、多くに人が利用をしているとのこと。広場もあり、昔ここで中学仲間とハンカチ落としで遊んだことがある。女生徒に好かれない、こいし(私)には誰も落とさない、ちょっぴり悲しい記憶がよみがえる。

 

これからは宣伝になります。

この公園は都内の二十三区とは思えないほど緑多く、風光明媚で、歴史ある良き場所です。近くに来られたさいは、ぜひ、寄ってください。 きっと、誰かさんとまた来たくなりますよ。

 

ちなみに場所は、西武池袋線石神井公園駅」下車、徒歩十分ほどです。

 

 

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  三宝寺池です  水鳥が波紋を広げています

 

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  水辺観察園です

 

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 石神井池です 手前の樹は柳と桜 春はとても綺麗ですよ

 

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死を知らずの言葉ですか

宗谷岬は北緯四十五度、沖縄の喜屋武岬は二十六度、であるなら寒暖の差があるはず。そうではあるが「暑さの果ても彼岸ぎり、寒さの果ても彼岸ぎり」との故事。

この頃になると、きまって、学生時代のサークル(器楽合奏部)仲間のS君が脳裏に浮かび、同時に二つの思い出も。

 

漱石の小説「こころ」には 「墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて『もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、地面は金色の落葉で埋まるようになります』と言った」と書かれている。

 

高校二年の時に読んだS君は、この文章にかぶれ、それが高じて大学生活を、舞台になった雑司が谷霊園のそばで過ごした。

卒業後は愛媛県松山へ戻り、家業の水産業を継いでいたが、秋になると霊園の黄葉が恋しくなり、毎年のように上京していた。

S君は上京を決めると

「○月○日、東京へ行くよ。無理してでも会ってよ。いつもの時間に、れいのスナックで待っている」と、電話してくる。

ところが今回は、雑司ヶ谷霊園で正午と言う。

時間きっちりに待ち合わせ場所へ行くとS君、吸っていたタバコを急いで携帯のケースに収め、その後、挨拶もそこそこに

「こい君(私の呼び名)、君の入る墓、ここのどこ? 死んだら、お参りに来るから、教えてよ」

場所を指定した理由が、これ? 疑問を持ったが、先々、そうなるかもしれないと思い、案内した。

 

思い出(一)

私の学科では簿記が必須なのだが、悲しいかな、私はそれをこなす脳みそがない。なので、三年生になっても及第点が取れていない。四年でもそうだと、十六社受けて、やっと内定した会社は、ぱあ。

結核を患い、無収入に近い父が内定を知った時「やっと、お前にかかる金、心配しなくてよくなった。やれやれだ」と口にした。

就職と父の安堵を思うと、どうしても及第点が欲しい。だが、自信がない。そこで窮余の一策、一年次で既に単位を取っていた、商業高校出のS君に替え玉を頼んだ。

すると少し間をおいて

「見つかったら、退学になるよな。家業を継ぐ俺は、卒業証書、いらないけど・・・・・・こい君はまずいよな・・・・・・見つからない、良い方法はないかな・・・・・・そうだ、こうしよう。試験中に机に置く学生証は俺のにして、もちろん名前も俺のにする。

試験が始まって三十分になったら、教室を出ても良いことになっているだろう。その時、大勢が事務員に答案を渡して出て行くよな。ざわついているその時、名前を書き替える。事務員、二人だけ、見つかりっこない」

少々、自信ありそうに言った。

良策ではあるが、まだ、なにか不安。その様子を察したのか

「万が一が怖かったら、俺が責任持って、教えるから、まともに受けたら?  なーに、簿記なんて、こつだよ。それが分かれば簡単だ。それと試験、毎年、同じような問題ばかりだから、過去問(題)を、がっちりやれば、及第点、間違いなし」

三日間、教わって、無事「蛍の光」を歌えた。

 

思い出(二)

替え玉を依頼した半年前の夏、サークルを打ち上げた翌々日、S君の家に立ち寄った。家人に歓迎された翌朝は、もう陽が燦々。そこで海水浴を提案した。

「グッドアイディア」S君は喜び、中学生時代の友で商船大生「ろくさん」も、ついでにと誘った。

小船で十分ほどの浜には、飛び込み用の脚立があった。久し振りだと張り切った私、板の先端につま先で立った、その時

「おい、なあ、ろく(ろくさん)、あっちから来るの、中学の時、一緒だった、波子じゃないか、ほら、神戸の医大に行った」

S君が、五人の先頭を指差し、言った。

「あっ、そうだ。その後ろは砂江みたいだ。ちょっと待てよ、なぎさと凪子もいる!」 その日の夜、星降る下で合流した四人と、ビールとバーベキューを楽しんだ。その後、フォークダンス。(恥ずかしいがり屋で踊れぬ私、孤独)

踊り疲れると中学時代の恋談義が始まった。(違う中学の私、またまた孤独)

 

数年後、S君と砂江、ろくさんと波子が華燭の宴。その切っ掛けは浜での再会。と言うことは、遊泳を提案した私が、恋のキューピットだ。誰もが、イメージするキューピットとは、似ても似つかぬ容貌の私ではあるが。

 

我が家の墓の在りかを知った半年後、S君の夫人、砂江さんから沈痛の電話。

「主人が、今朝の六時に亡くなりました。大腸がんが肺に転移しまして・・・・・・」

 

「こいしが死んだら、お参りに来る」と言ったS君、還暦を待たずに逝った。

己の死を知っていて? 知らずして?

 

(2〇14年9月 こいしノートより)

 

 

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 (見上げる銀杏 まだ黄葉していません)

 

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(他の樹々も、紅葉はまだまだです)

 

 

 

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はな子の お別れ会

私は、九月三日に催された「アジアゾウはな子のお別れ会」に参列し、関係者の思いやりと優しさに心を打たれました。

最初のは、市長が挨拶した中で、はな子を「はな子さん」と、呼んだことにです。

 

園長は「特設展示 はな子の69年」の挨拶文に、こう書いている。

「平成二十八年五月二十六日、アジア象の、はな子が死亡しました。こう書くと間違った表現のようで『死亡』とは人にたいして使う言葉であり新聞などのマスメディアでは動物は『死んだ』が使われるそうです。

しかし私は敢えて死亡という言葉を使います。なぜならはな子は紛れもなく『人』と生き、『人』が運命を変えてきた69年の『人生』だったからです(以下略)」

市長も、同じ思いだったのでしょう。

 

奥方を呼び捨てにする亭主関白殿、市長を見習い「さん」を、つけたらいかが? 

「馬鹿、言うな! 男がすたる! こけんにかかわる!」

まあ、そうおっしゃらず、言ってみたら? 

奥方、たちまち頬がピンクになって、晩酌の一合が二合、三合に。そして「今日は私も飲みたいわ、ねえ、注いで」と、しなだれかかるかも。

 

つい、おせっかいを言いました、話を戻します。

市長の優しさは、飾り気なく歌った「ぞうさん」の替え歌です。

「はな子さん はな子さん ほんとうにありがとう どうぞ ゆっくり おやすみなさい」

(元歌、まど・みちお作詞、団伊玖磨作曲)

 

食事の担当員の話にも、思いやりが、いっぱいだった。配布された冊子に、六十九歳を迎えた頃の、はな子の食生活(一日分)が、載っている。

「お結びにした麦ご飯(6kg) バナナ(18kg)リンゴ(2kg) ニンジン(2.5~3kg) 小松菜(1.5~3kg) キャベツ芯を抜き、6~8等分に切る(10kg) 黒糖湯(36ℓ) 黒糖(2kg) 食パン(10斤)」

 

季節ごとの、果物と野菜も載っている。

「スイカは皮を取り除き、食べやすいサイズに切って(一日一個) ナシは乱切りにして(1日2kg) カキは8等分に切り(1日1kg) モモは缶詰で、シロップが嫌いなので水洗いし、水を切り(1日3~4缶)」

 

この他、自然文化園で採った、ドクダミヤブガラシハコベハナダイコンカラスノエンドウなどなど、合わせて一日5kg。(※効果は文末に書きました)

毎日毎日の尽力、仕事とはいえ、思いやりと愛情なくしてはできないと思う。

 

はな子の像が現実になった。つい最近の新聞に、こんな文が載っていた。

「死には二つがあって、一つは生命が絶たれた時、もう一つはその事実を知る人の皆が死んだ時」

そうであるなら、はな子の像を見る人が存在するかぎり、はな子は生き続ける。戦争で、日本が破壊されなければの話しだが。

 

はな子の遺体は、国立博物館に寄贈され、学術研究に役立てられるという。死してなお世に貢献する、はな子 ありがとう、そして安らかに。

 

(※)配布された冊子より

「ヤブカラシの根は「烏歛苺(うれんぼ)、ドクダミの茎や葉は「十薬」という生薬になり、烏歛苺には利尿、解毒、鎮痛などの効果があり、十薬を煎じた液には、利尿作用、動脈硬化の予防作用あるということです。

年老いた、はな子にとっては、どちらも体に良さそうです。まるではな子が、その効果を知っているかのようですね」

 

 

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 お別れ会のポスター

 

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  献花の列

 

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  無邪気に遊ぶ はな子(配布冊子より)

 

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 写真集(配布冊子より)

 

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 お別れ会のお土産

  

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百合(難しい話と恥ずかしい話)

兄は、日本ブログ村の「季節の花」街区に居を構えて、もう十年になる。半年前に訪問した時、兄のブログ「道草の時間」に目を通した。

http://michikusanojikan.at.webry.info/201607/article_3.html

 

「一昨年、カサブランカの球根2個を一つの鉢に植えました。それが昨年の夏見事な花を咲かせました。今年は、昨年から残っていた球根から、昨年と同様の太い茎が2本立ち上がりました。それに加えて、8本の細い茎が斜めに生えてきました。そして、成長するにつれて、ほとんどが横向きになりました。  2本の太い茎には昨年と同様、それぞれ8つずつの豪奢な花が付きました。一方、細い茎の方は、8本のうち2本の先端に1つづつ花がつき、花の大きさもかたちも太い茎についた花と同様でした。  太い茎の葉も、細い茎の葉も、同じかたちでしたが、葉のつき方に違いがありました。葉序は太い茎も細い茎も互生ですが、太い茎の葉序では、葉はらせん状に並び、細い茎の葉は二列互生の葉序になっていました。

細い茎は横向きに成長したため、光合成を効率よく行うべく、葉の上面に十分な光が当たるように、本来はらせん花序であるべきものを、茎の成長点(茎の先端の分裂組織)が、茎が横向きであることを感知して、二列互生に変えたものと推測されます。

:葉序には基本的に互生、対生、輪生の三型があり、遺伝的に決められた性質です。上記の例は、互生花序の中の変異で、遺伝的なものでなく、後天的なものと考えられます」

 百合の茎に二列互生があるとは、びっくりだった。

 

修験道場で知られる大山の麓に、自然林があって、そこで開かれる月一回の動植物の観察会(ミニ観)へ、ここ八年通っている。

兄を訪問した二ヵ月後、ミニ観のコースから少し離れた場所に数十本の山百合が、みごとに咲いていた。それを眺め終えた時、兄が話した「二列互生」を思い出して検証し、その結果、確かだった。

 

どんな質問にも、分かりやすく教えてくれる、ミニ観の代表が、百合の群生を眺めている時の私を、どう見たのか、翌月、短冊を差し出した。そこにはこう書いてあった。

 

「道の辺の草深百合の花咲(ゑみ)に 咲(ゑ)ましからに妻といふべしや」

 

和歌には全く疎い私、意味を知ろうと帰路、図書館に寄り、若い女性の学芸員に解釈を聞いた。

すると「少々、お待ちになって」と言い残し、数分後「新日本古典文学大系万葉集二巻(岩波書店)」を、手にして来た。そして栞を挟んだページを開け「どうぞご覧になって」と、差し出した。そこには原文と和歌(前述)、そして注釈が載っていた。

(原文)

「道邊之 草深由利乃 花咲尓 咲之柄二 妻常可云也」

(注釈)

「道ばたの草深い中に咲く百合の花のように、にっこりお笑いになっただけで、妻と言ってよいものでしょうか」

 

おおよそは理解できるももの「妻と言ってよいものでしょうか」が、まだすっきりしない。そこで再び問うた。すると少し自信なさそうに

「・・・私なりの解釈ですけれど・・・・・・ちょっと微笑んだのに、妻になって欲しいだなんて、勘違いなさらないで・・・かしら」

と言い、その後、悪戯っぽい表情に変えて

奈良時代の男性も、平成時代の男性も、あまり変わりませんね。おたくはどうですか?」

 問われた私、一瞬「ドキッ!」

 

 心底尊敬するミニ観の代表、どんなつもりでくれたのかなぁ? 

 

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  太い茎に咲いた花

 

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 太い茎の葉序(らせん状)

 

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 細い茎に咲いた花

 

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 細い茎の葉序(二列互生)

 

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 代表から いただいた短冊

   

アジアゾウ はな子のお別れ会に行ってきました。次回は、そのことを書きたいと思っています。

どうぞ、遊びに来てください。

  

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アジアゾウ はな子 ありがとう

 昨年の晩秋、象のはな子が弱っていると聞き、年が年なので、ひょっとすると? 不安が過ぎり、井の頭自然文化園にある動物園へ、会いに行った。するとそのとおり、後ろを向いたきりで、左右に力なく鼻を振るばかり。

母親の胸から、じっと見ていた、くりくりした目が可愛い女児が「ママ、ぞうさんの、おかお、見たい」と、振り向いた。

 

半年経った今年の五月、はな子が死んだとの報道。それから二ヵ月後「アジアゾウはな子の六十九年」と、題した展示会が催された。それを知り、さっそく出向いた。

 

 展示室には、園長の挨拶文があった。

「平成二十八年五月二十六日、アジア象の、はな子が死亡しました。こう書くと間違った表現のようで『死亡』とは人にたいして使う言葉であり新聞などのマスメディアでは動物は『死んだ』が使われるそうです。

しかし私は敢えて死亡という言葉を使います。なぜならはな子は紛れもなく『人』と生き、『人』が運命を変えてきた69年の『人生』だったからです(以下略)」

この文言に違和感を持ったが、深くたずさわった園長の本心だろう。ならば理解すべき、それを念頭に見学することにした。

 

展示物の始まりは、神戸港から、はな子が貨物列車とトラックに乗せられ、上野動物園へ向かう途中の御徒町付近での写真だった。

 

次のは「仲良くしてね」そう言いたげな目で、同程度の背丈の小学生から、鼻で器用に果物を受ける、はな子の写真。

 

次は説明文、最後の二行で救われたが、読むのが辛い。

「1956年には、酒に酔った男性が夜、ぞう舎に忍び込み、はな子に踏まれて亡くなり、1960年には飼育係が象舎で、はな子に踏まれ、殉職するという、いたましい事故がおきてしまいました。

 二度目の事故のあと、はな子は危険な象という判断で鎖につながれたままで飼われ、象も人もお互いに信頼できなくなってしまいましたが新たに担当した飼育係により、次第に以前のような、はな子に戻っていきました」

 

 私は、事件の背景は関係者の都合で、はな子を井の頭動物園に移し、それにより、一頭きりになった。それが原因でストレスがたまり、気性が荒くなった結果、そう推測している、今もって。

 

次からは体調の悪化で、おおよそこのように書かれていた。

「1982年頃から、やせて元気がなくなり、消化不良が便ぴをおこすようになった。そのさいは、ホースをお尻に入れて浣腸した。

1983年の12月16日、左上の歯、九日後、右上の歯が抜け落ちた。これにより、特別食となる」

便秘の治療もそうだと思うが、日に何十キロの食材を、食べやすいように調理する工夫とその労力、さぞ大変だっただろう。

 

他にも考えさせられる、色々な展示物があったが、最後のコーナーは、はな子の遊具だった。

はな子がつぶしたタイヤや、首にまいたり、空に放り投げたりしたホースが置いてある。映像もあって、元気な頃を思い出す。

使い古したホーキもあった。担当員の掃除を手伝おうと、鼻でそのホーキ持つ写真も掛けてある。そこには「さすがに掃除は出来なかった」とのコメントが。何ともほほ笑ましい。

 

見終わると、園長の挨拶文に違和感がもうない、私になっていた。

 

九月三日には、お別れ会があるという。

 

はな子の像を建てる話もあるという。

 

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 (展示会のポスター)

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 (上野動物園へ向かう途中、御徒町あたり)

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(ホースで遊んでいる)

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(お別れ会のポスター)

 

 

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