こいしノート

エッセイ読むのも書くのも大好き人間です、小説も。 

おかあさん なみだながさないで 

前回の「タブレットは すご〜い」の末尾に「明日、京都へ旅してきます。愛くるしい、お地蔵さまに逢いに」と、記しました。

旅を決めたのは京都在住の画家、S氏と昨年の暮れ、神田の居酒屋で飲んだ時にです。S氏が「僕のアトリエに、面白い物がいっぱいあるんだ、是非、来て見てよ」と、興味を持たせるような口調で言いました。(※アトリエの話は後日、書こうと思っています)

見たい気持ちは、やまやまだったのですが、新幹線に乗ってまで、それを考えて躊躇していたのですが、そのうち、以前に見た、愛くるしいお地蔵さまが、ふと、頭を過ぎり、すると、どうしても逢いたくなり「年が明けたら、きっと」と、口にしました。

 

 話は遡りますが、こいし、四十歳になった頃、大阪支店勤務の辞令を受けました。どの地へ赴任しても、そこを楽しむ主義の、こいし、ここは京都や奈良が近いので、古刹巡りに的を絞りました。

手始めの初日は、中学の修学旅行での行程どおり歩き始めました。そして、興福寺まで来た時、ここで、記念写真を撮ったことを思い出し、当時の気分もう一度、その気持ちで、記憶にあった石段に立ちました。すると前列にいた、I子さんが脳裏に浮かびました。

「成績が良く、綺麗で優しく、淑やかだった、I子さん、どうしているだろう」

少々、センチメンタルになりました。

翌々週は、天竜寺、釈迦堂、大覚寺祇王寺を見学し、さらに、あだし野念仏寺まで足を伸ばしました。そこで、愛くるしい顔で、みず子地蔵尊の横で眠る、お地蔵さまと対面したのです。

この地蔵の由来は、念仏寺の栞のお終いに記されています。念仏寺の由来とともに、読んでみてください。(※要旨です)

 

「境内にまつる八千身体を数える石仏・石塔は、あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集めた。

 この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり、人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。

竹林と多聞塀を背景に、茅屋根のお堂は、この世の光はもとより、母親の顔すら見る事もなく露と消えた『みず子』の霊を供養する、みず子地蔵尊である」

 

こいしの大阪勤務は三年でした。この間、幾度か念仏寺へ行き、地蔵に手を合わせました。大阪を離れるさいもです。

 

それから二十一年、S氏のアトリエを訪問した翌日、念仏寺へと向かい、そして、愛くるしいお地蔵さまに逢いました。当然ですが、全く変わっていない、寝姿です。

ですが、こいしが変わったのか、以前には考えもしなかった、こんなことを思いました。

 

「おかあさん、なみだながさないで。あたし(ぼく)不幸ではないの。おかあさんの、おっぱいはのめなかったけれど。

おかあさんのいまを、ほとけさまがはなしてくれます。あたしのことをおもって、いもうとをうまないのね。それはちがうわ、あたし、いもうとほしい。そのこが、あたしなのよ、おかあさん」

 

こいし、もう歳です、なので「今度逢うのは、蓮華咲く池のほとりでね」と声を掛けつつ、三度、頭をなで、来た道を戻りました。冬には珍しいほどの温かな陽を背に。

 

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 石塔と本堂(撮影禁止でしたので、念仏寺の栞より)  

 

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 みず子地蔵尊(撮影禁止でしたので、念仏寺の栞より) 

赤いべべ着た 愛くるしいお地蔵さま 写真撮影禁止

とても残念です

 

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 みず子地蔵尊の裏にある、竹林です これは、こいし

が撮りました。

 

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